狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

おすすめ軍事書籍ー兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと 

もはや戦後ではない。1956年の発言は、経済復興に関連したキャッチコピーであったかもしれない。では、日本が本当の意味で戦後ではなくなるのはいつだろうか。歴史は断絶を許さないだろうから、いつまでも戦後は続くのかもしれないが、一つの区切りを作るならば、当時の現役世代、特に従軍経験者がこの世を去るまでが戦後と言えるかもしれない。 

 

今回紹介する書籍は、そんな従軍経験世代のその後を追いかけた「兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと」である。著者は吉田裕氏。2020年に発行された比較的新しい書籍である。恥ずかしながら、著者のことを全く知らなかったが、旧軍関係の記録や戦争社会学系の分野での大家らしい。「戦争と軍隊の政治社会史」という近著もあるようで、個人的には要チェックである。 

 

さて、「兵士たちの戦後史」の紹介になるのだが、この本の素晴らしいところは、従軍経験者のエピソード(戦中戦後の双方で)を出典を示しながら多様に掲載している点にある。この本を購入したきっかけは、旧日本軍人の体験談集のようなものを探していた時にアマゾンで見かけたからなのだが、購入して正解だった。長いこと、かれこれ30年近くミリオタをやっているが(私は幼稚園からのミリオタ)、この本には、どこかで聞いたことのある、見たことのあるエピソードの出典が示されている。誰に話を伺ったか、どこに記載されているか。それだけで資料としての価値があがるというものである。 

 

また、日本戦後史をなぞるように、個々の人物の意見や感想がその時代・社会でどのような位置にあるかを示しているのもポイントである。終戦直後から少しずつ、現代に近づき、それぞれのタイミングでの従軍経験者の置かれた状況、あるいは「戦友会」という従軍経験者の集まりについて、資料をもとに綴られている。まさに「戦後史」である。 

 

長年ミリオタをやってきた私にとって、本著に記されている従軍経験者のエピソードには、知っている話も多かったが、前述したように、出典が記されているところが素晴らしいと感じた。また、戦友会の細かい変遷や、戦中懐メロブーム、軍隊喫茶の繁栄など、これまで触れる機会の無かった話を知ることも出来たので大満足である。 

 

敗戦後、外地から日本に帰国する復員船の中で、末端兵士がかつての上官をリンチした話が紹介されている。その手の話しとして聞いたことはあったが、具体的にどこの誰が言った話か、当時の新聞にも記事にされおり……と、必要となれば読者が原典を追いかけてることが出来る。流石は研究者の書籍である。本著は、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」に通じるところがあるように思う(こちらもいずれ紹介したい)。 

 

前線での悲惨な光景(餓死者の多さ等)、階級や所属部隊・参加戦線による戦争観の違い、戦中の戦士が戦後企業戦士として日本経済の復興に尽力した。これまでに何度か見聞きしたことのある話だが、戦友会についての「軍隊生活の理不尽さを思い出すと参加したいと思わない(趣旨)」という従軍経験者の意見は、あらためて文字にされると切実さが伝わってくる。また 戦友会への意見として「かつての階級をどうしても意識してしまう(趣旨)」というのは、解体されたとはいえ、軍隊と言う組織がどういうものであるのか、よく示していると思う。

 

歴史認識というものが問われることが多い昨今の時世ではあるが、個々のエピソードを持つ独立した個人の集合体が、単一の認識を共有することは困難なのだろう。かつての戦友と軍隊生活を、あるいは大日本帝国時代を懐古できる者もいれば、そんなものまっぴら御免と感じる者もいる。その辺、企業のOBOG会にも通じるだろう。

 

ちょっと余談だが、将校主体の戦争回想として比較的手に入れやすい書籍に「日本海軍400時間の証言:軍令部・参謀たちが語った敗戦」というものがある。NHKのドキュメンタリー番組(旧海軍指導層が戦後に開いた反省会を追いかけた内容)に関連した書籍だ。オリジナルの証言集(反省会の記録)は全11巻と中々に手を出し辛いので、興味を持った人には一読をお勧めしたい。将校と末端兵士。見ている景色の違いをありありと感じることが出来るだろう。 

 

将校主体の戦争回想への反発、前線に出ずに済んだ文化人・知識人(インテリ層)への反感意識、当時の末端兵士の心情というのは現代においても共有されるのではないだろうか。 そしてそこにも、正社員と契約・派遣社員(階級)、大企業とその他(所属部隊)、業界(参加戦線)による違いなど、格差は確実に存在する。ひょっとすると今の私達は、数十年後の「戦後史」を綴っているのもかもしれない。

 

「軍人恩給の支給制度において、自らの意思で捕虜になった場合、捕虜の期間が加算対象にならず、恩給の支払いにおいて不利益を被った」という例が紹介されている。これは知らなかったので、かなり驚いた。傷痍軍人を収容所送りにしたというソビエト連邦に比べれば(出典:イワンの戦争)まだマシかもしれないが、「生きて虜囚の辱を受けず」は継承されていたと言える。余りにも酷い。本著の表紙絵にもなっているが、傷痍軍人への対応と言うのは、その国の本質が現れるように思う。命を懸けて働き、結果として傷ついた者をどう扱うか。そこに、戦後も銃後も関係ないだろう。 

 

立場が変われば感じ方も変わる。世代が変われば、時代が変われば……同じ体験を共有しているようで、見ているモノ見てきたモノが同じとは限らないのだろう。1980年代生まれの私は、従軍経験世代は祖父より上の世代。共に働いたことはない世代。戦争体験を聞く機会はあったが、彼等の人となりをつぶさに知る機会は無かった。そしてその機会は永遠にやってこない。 

 

完全なる戦後がいつ訪れるのかは分からないが、自分が生きる国家がどのような人達の上に形成されてきたのか、知ることが出来る書籍だと思う。従軍経験者や戦後史について興味を持っている方には、是非とも手に取ってもらいたい。そして出来れば、他の書籍に記されている回想や証言と、比較していただきたい。資料の数だけ歴史があるのかもしれない(本著の証言の方向性が従軍経験者の全てではない)……そんな感慨にふけることだろう。 

自殺を否定できない

最初に断っておくが、誰かの自殺を推奨・ほう助するつもりも、私自身が事を起こすつもり無い。私の頭の中に、クルスクのT34や112高地のシャーマンの如く湧いて出てくる希死念慮に対し、理性を持って反論論する中で、どうにも対応できないので、考えをまとめておきたい。それだけだ。

 

自殺を否定できない。やはり理性で自殺を否定するのは困難なのだろう。私の考えはこうだ。

 

1.人間はいずれ皆死ぬ。
2.どの様な理由であれ、生命活動の停止という点において、死は苦しみを伴う。
3.   辛い人生が続けば、死の苦しみと死ぬまでの苦しみが必要になる。
4.自殺をするのであれば、死の苦しみだけで済む。

 

この条件では自殺を否定できない。1は固定だ。2もほぼ固定だろう。1~2ヶ月の闘病生活を得て、最後はチューブだらけになって、寝返りをうつことも困難になって、呼吸を減らしていく。そこに苦しみが無いと言うのは嘘だろう。近年の、終末治療の発展は確かな成果をあげているだろうが、それでも臨終の瞬間は苦しいと思う。大麻由来の医薬品がどこまで解禁されていくかわからないが、少しずつ死に近づいていく、臨終の苦しみをゼロにするのは困難だと思う。

 

問題は3だ。自殺を否定するには、3を否定するしかない。あるいは、「例え苦しい人生が続き救いも何も無いとしても、生き続ける方が上位である」と設定することだ。

 

現実的な話として、「苦痛の回避」という観点から3を否定できるだろうか。全ての人間に、苦しみからの解放を約束できるだろうか。宗教はそれを約束するだろうが、この2000年間ほど結局果たせずに来た。今現在も達せずにいる。短期的な解答でよいならば、麻薬が結果を保障してくれるが、長くは持たない。それどころか、廃人を作る。目先の解放の代償に、死よりも辛い後遺症をプレンゼントしてくれる。これも駄目だ。

 

現実問題として、苦しみを抱えたまま亡くなっていく人をゼロにすることは出来ない。つまり、「死の苦しみと死ぬまでの苦しみ」を消すことが出来ない。解消するには、手段としての自殺を肯定するしかない。

 

生きている楽しみがない。薄給激務。友人も恋人も親しい家族も居ない。そのシチュエーションはいずれ変わるかもしれない。その可能性は否定できない。しかい期待値としてはかなり低い。「諦めるな」と言うのは簡単だが、人口の数%が孤独死する未来が確定している現在において、物心両面においての格差が固定化しつつある現代において、何の責任をもって、どのような材料を持って「諦めるな」と言えるだろうか。

 

せめて机上で良いので、万人を救済できる手立てを確保できているならばよいのだが、そうでない状況で、現実に苦しみを抱えたまま死ぬしかない人間が数十万人、数百万人単位で居る中で、自殺の否定を個人の努力や限りなく低い蓋然性に委ねるというのは、

 

「君は社会に溶け込めないだろうし、世間の感覚に共感できる日は未来永劫訪れない。経済的に成功することも無い。結婚も出来ないだろうし、親しい友にも恵まれないだろう。そんな中、あと30年、働いてもらう。ついでに、親の介護もやってくれ。楽しいことは無い、希望もない、辛いだけだろう。君が生きる喜びを知る日は来ない。けれども、自殺は駄目だ」

 

と言っているように思える。「基本的な人権の尊重=自殺の否定」を(仮に建前だったとしても)掲げている我が国において、マジョリティとしてはそれが最も都合の良い解答なのだろうけれど、低級国民である私としては、

 

「私の苦痛を、私の努力不足や能力不足に起因していると判断するのは自由だ。だが、現実に救われない、報われない人間が何万人といるならば、自殺という選択肢を社会悪かのように咎めることは出来ないだろう」

 

と反論したい。個人に対し、「努力をもって自殺を回避せよ。未来は固定されていない」と指摘することはできるだろう。努力でなくとも、他の手立てでもよい。それは可能だ。だが様々な分野で統計上の数値として改善が望めず、社会集団としての正解を示せないというのならば、「自殺という選択肢」を認める必要があるのではないかと思う。

 

繰り返しになるが、誰かの自殺を推奨・ほう助するつもりは無い。だが、「苦痛の回避」という観点から考えれば、自殺という手段を否定できないのではないかと思う。

ブラックユーモアの嗜み

私はブラックユーモアが好きだ。風刺とか皮肉の類が大好きだ。不謹慎なジョークが大好きである。だが嗜み方として、発言を聞いて傷つく人がその場に居ないことが条件になると思っている。事実上、誰もが閲覧できる現在のWEB世界においては、ブラックユーモアの出番は制限されるものだろう。

 

ここまでネットが普及した現在においては、対面での仲間内でないと話せないことが多くなったように思う。Twitterの様な、それこそ多くの人が目にする場所では、発言に注意を要する。今でも、一部の人しか閲覧しないようなコアなあるいは日陰な場所(マイナーな掲示板とか)では、黒いインターネットが残っているが、一度注目されれば消えるだろうか。

 

私には、数は少ないけれど友人が何人かいる。似たような境遇というか、はぐれ者揃いだ。だからだろうか、仲間内での会話は色々と酷い。とてもオープンスペースでは披露できないような風刺や皮肉が飛び交う。しかしそこには、特に明文化されたわけでも、約束したわけでもないが、ルールがある。お互いが不愉快にならないということだ。要は、友人を傷つけない。

 

友人の一人は兄弟が障害者だ。だから障害者をネタにすることは決して無い。勿論、そいつの兄弟が健常者でもネタにしないだろうが。私が創価学会なもんで、宗教ネタは避けてくれている。配慮されているのが伝わってくる。LGBTQをネタにすることもない。各々の友人にLGBTQの方がいるからだ。もしかしたら、仲間内にもいるかもしれない。

 

全員独身でモテない人生を歩んできたので、非モテの話は自虐にしかならない。ミソジニー的な話もでない。そもそも仕事以外で女性と縁のない連中の集まりだから、女性の話題が出ない(笑)。庶民が車を購入する時に、コルベットとかブガティが話題にならないように、私達の間では、そもそも女性の話題がでない。サブカル好き(マニアックな趣味)が集まっているので、他人の趣味を悪く言うことも無い。

 

では何が酷いかというと、エスニックジョーク、人種ネタ、政治歴史ネタである。SNSでやったら即垢バン間違いなしである。

 

まぁ何が言いたいかというと、その場に傷つく奴がいなければ、不謹慎なユーモアも許されるだろうということだ。あと、リスクや社会的な評価を気にせず、自由に発言できる場所を確保しようねって話だ。公共の場における差別発言を取り締まるのは当然だと思うが、それで差別が減っているのかと言えば疑わしいし。機能としての差別や不具合を根絶することは、困難にしろそれなりに手立てがあると思うが、相手の心根までかえるというのならば、薬物や外科治療が必要だろう。遺伝子改良と幼少期からの集団教育(洗脳)も必要かもしれない。私はとりあえず、機能としての差別や不具合を解消できればそれでいいんじゃないかと思っている。

 

ネット上で健全な人物が、現実世界でも健全ならば最高なんだが、実態は周辺の人にしかわからないだろう。逆もしかり。現実世界では「まともな人」が、SNS上では酷い暴言を吐くこともある。両方駄目な人は論外として、言論の露出度とそこからくる評価が、その人となりを現しているかと言えば違うだろう。様々な努力の成果から、インターネットは奇麗になったと思うし、差別や社会矛盾に対して声を上げやすくなったとも思う。それは歓迎すべきことなんだが、現実は良くなったのか判断に苦しむ。

 

結局のところ、現実世界において自由な発言を担保出来ていないのだろう。職場で、社会問題や政治政策に関する議論をノーリスクで実施できるか?と聞かれて「我が社は大丈夫です」と返答できるだろうか。どこからでも誰もが通報できるネット空間よりも、立場や空気でマウントをとれる現実世界の方が、ハラスメントや差別発言が蔓延っていないだろうか。

 

現実社会に代わる自由な(素直な)発言空間としてインターネットに活路を見出してきた層というのは、主義主張の方向性に関わらず一定数存在する。ところが、ネット空間があまりにも現実になったおかげで、最後の隠れ家を失った。この先、現実世界及びネットにおいて本心を言えない層がどうなるのかは分からない。ただ、逃げ場所が無いというのは危険なことだと思う。発言の内容や方向性以上に、発言の場がないというのは危険なんじゃないかなって。

 

米国大統領選前後で、保守系があつまるSNSの存在が話題になったが、同根が集うサービス(要はサロンだ)というのはこれから一定の支持を集めるかもしれない。それはネット空間の分断を意味するわけだが(もっとも今だって興味のないエリアは閲覧しないが)、どうだろう。あるいはリアル回帰路線で、マニアックな少数オフ会が再興するか。折衷案でVRミーティングか(VR空間の規制はまだ緩いと思う)。それとも専用ブラウザと暗号通信か。

 

現実世界はもちろん、インターネット空間にすら居場所を見出せなくなった時、人はどういう行動にでるだろうか。ジョークやユーモアでは済まないと思うんだ。

おすすめ軍事書籍ー裏切られた空 Der verratene Himmel

書籍を紹介する時、その本を読み返さずに紹介できるだろうか。もし出来るとしたら、その本は、その人にとって特別な本だろう。私にも何冊かそんな書籍がある。今日紹介するのは、その1冊だ。タイトルは「裏切られた空」。

 

「裏切られた空」はドイツ語原題「Der verratene Himmel」の翻訳で、邦題は「フォッケ=ウルフ迎撃隊」となっている。「H.M.S. Ulysses」を「女王陛下のユリシーズ号」と訳したこともある本邦翻訳陣であるが、もう少しセンスを磨いてもらいたい。「フォッケ=ウルフ迎撃隊」という邦題も嫌いではないのだが、書籍の内容が全くつかめない。もっとも、そのお陰で私はいい意味で裏切られたのだが。

 

高校2年の夏、初めて1人で東京に遊びに行った。神保町の古本屋街、ミリタリー関係専門の書店がある。そこで表紙絵に一目惚れして購入した。当時の私は、典型的な高校生ミリオタだったと思う。創価学会に生まれてミリオタになる。なぜこうも人生を外していくのか分からないが、とにかく当時の私は、ネット興隆期の影響もあって、典型的な高校生ミリオタだった。兵器や戦争について語ることが好きで、国防・地政学とか、リアリズムとか、防衛戦争としての太平洋戦争論みたいのに惹かれていた。

 

戦争の残酷さは承知していたが、戦闘のかっこよさに魅せられていた。チャーチル首相ではないが、戦争参加ということにロマンを感じていた。軍人になりたいとは思わなかったが、兵器を操る妄想は心地よかった。それは今でも変わらないかもしれないが。また戦争とは、残酷であるにせよ、秩序だったものだと考えていた。

 

そんなミリオタ高校生に、生活としての第二次世界大戦を教え、フィクションとしての戦争映画やドラマがいかに胡散臭いかを示してくれたのが、この「小説」である。舞台は第二次世界大戦、ドイツ空軍の戦闘機部隊。主人公はそこに所属する戦闘機のパイロットだ。

 

著者は第二次世界大戦中、小説内での主人公の愛機「フォッケ=ウルフ」に実際に搭乗していた元ドイツ空軍の戦闘機パイロット。兵器や戦闘の描写は、体験者のそれであるがゆえとてもリアルである……病的なまでに。エンジンの型番から、スイッチ類の配置、照準器の調整。読むと確信できるが、著者は兵器を、自分が搭乗したフォッケウルフという戦闘機を愛していたのだろう。

 

主人公は戦闘機に載っているのだが、エースパイロットでも何でもなく、実際は戦闘忌避の、人を殺したくないただのパイロット。空を飛びたかっただけの青年だ。血肉踊るような活躍など無く、むしろ同僚から臆病者と罵られるような、全く戦争に向いていない男だ。ただ空を飛んでみたかった男が、時代の流れから戦闘機に乗っている。

 

私はこの本を購入した時、本のあらすじを何も把握していなかったのでびっくりした。普通この手の戦争小説は、主人公が敵を倒すものだ。戦争の大局として、自陣営が滅ぶにせよ、多少なりとも活躍するものだ。ところがこの小説にそんな描写はまるでない。戦闘には参加するが人を殺せない。機会があっても撃墜できない。そんな主人公である。

 

主人公が恰好いい兵器で敵を圧倒することを期待していた私としては、肩透かしをくらった。だがいい意味で裏切られた。この小説の真の見どころは、当事者達のナマの生活が描かれている点にある。

 

隠れて敵性音楽のジャズを聴く、ジャズっぽい音楽を演奏したことを上官に詰問される、反政府的な乱痴気パーティーに参加する、仲の悪い戦友(最後は頭にきて発砲する)、名前が出たかと思えば直ぐに死ぬ戦友、名前も出ずに死んでいく友軍、後方から届いた卑猥なブロマイドをトイレットペーパーに使う、備品のパラシュートをシーツ代わりに性交する(しかも体液がついていたのでバレる)、戦死した戦友の遺品(聖書)に避妊具を挟む(向こうで楽しめるよう)、しれっと通過する強制収容所行きの列車など。ナンセンス、エログロ、ブラックユーモアのオンパレード。その合間に戦闘があって、戦果報告の書類が書式ごと描写されていたり、航空無線機の使い方がわざわざ説明されていたり、めちゃくちゃである。だがそれが最高だった。

 

イデオロギーや思想に、戦争の行儀良さを求めていた当時の私には、衝撃的で目の覚める内容だった。ただの残酷話でもなく、愛国心が輝くわけでもなく、お涙頂戴のメロドラマがあるわけでもなく、狂った世界の日常が、マニアでも飽きるくらいの細かい兵器描写と共にびっしりと詰め込まれている。それが「裏切られた空」である。

 

ネタバレになるが、この小説の最高に痺れたところは、ヒロインの始末である。劇的な再会があるわけでもなく、悲哀に満ちた最期があるわけでもなく、エピローグに一行「撤退作戦中に行方不明」とあるのみ。数百ページに渡り物語を紡いできたキャラクターにその仕打ちである。あまりにもあっさりと、注目されることも無く死んでいく。それがきっと戦争なんでしょう。手紙が届くわけでも、形見が渡されることも無い。

 

内容的に爽快感はまるでなく、救いも特にないが、ミリタリーに興味のある方、特に、若い方にはぜひ読んでいただきたい。小説とはいえ、戦争のリアルとは何か、考える良い機会になると思います。そしてそれを超えてなお、兵器の魅力を感じることでしょう。

 

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主人公の愛機 フォッケウルフ。ドイツの博物館にてSalem撮影。

 

半径5mの地獄

この前の金曜日、母親が選挙支援で東京に行ったそうだ。この文字通りの非常事態に選挙支援が為、東京まで行く。愚行なんてレベルではない、反社会的行為と言っていいだろう。

 

創価学会員の活動家が選挙支援活動を熱心にやるのは毎度のことだが、この状況下でも行動に移すとは流石に予測していなかった。打ち出しが、どのラインからなのかは分からないが、都議選に(+衆院選に)危機感を感じているのかもしれない。創価学会公明党も、いずれ衰退するのは間違いないのだがら、すみやかに勝手に滅んでくれ。巻き込まないでほしい。いや、それが困難なのは承知だが。

 

今までも創価学会の非常識な選挙支援は見てきたし、自分自身もニコポン(その辺の通行人にお声掛けする)とかやってきた口だが、ここまでイカレタ行動に出るとは思わなかった。様々な機会から創価学会の実態を知り、もう創価学会からどんな事実が出てこようと今更驚かんと構えていたが、そんなことは無かった。

 

創価学会にとって、都議選は準国政選挙というか、ほぼ国政選挙扱いの重要案件。本陣信濃町が東京にあるし、何かと目立つ選挙なのは事実だ。しかし、多くの国民が不要不急の外出を控え、飲食店や宿泊業が困難な状況にある中、選挙支援が為に他県へ出かけるとは、とても常識では考えられない行為である。頭おかしいにも程がある。

 

創価学会の選挙支援活動は、かなり際どい……というか駄目な部分がこれまでもあったけれど(未成年者を講演会に人数合わせで参加させるとか)、彼等には理性というものが完全に消失したように思われる。少しづつ壊れる過程で、「正常」という概念から完全に外れてしまった。

 

私が八王子に居た頃、学生部は特に狂気じみた迷惑選挙支援を実施していたが、今はどうだろう。創価大学を抱え、使える労働力たる学生部員の供給源として機能してしまっている八王子。この状況下で、無茶な支援指示は出ていないだろうか。八王子の学生部幹部(社会人)と言うのは、基本的には大学か本部の職員なので、彼等の方針と言うのは、極めて信濃町を意識したものになる。地方のようにノラりクラりとはいかない。

 

イカレタ宗教老人(母)が勝手に一人で死ぬ分には、喜びこそしれ悲しむ要素は無いが、若い世代に被害が出るようなことがあってはならない。創大生は悪い意味でも素直な学生が多いもので、頼まれればやってしまうだろう。だが大局的に考えてほしい。この社会状況下、選挙を頼むために都心へ出かけることが、果たして公共の福祉に利することになるだろうかと。

 

どうせ重点区はいつも同じ場所だ。何年も議員を輩出しているにもかかわらず、「アブナイアブナイ」言われるといううのならば、評価されていないということ。ただそれだけだ。いずれ限界点を超え、立候補しなくなるだろう。そんな活動に、人生を費やす必要はないし、間違っても他の誰かを巻き込んではいけない。

 

結局のところ、公明党創価学会員以外からの大きな支持を取り付けることに失敗したのだ。何年も何年も同じことを繰り返し、近年では得票数を減らすばかり。遂に、1,000万大運動は達成できなかった。なんかのきっかけで、投票率が上昇すれば、あっさりと沈む候補者。活動家の高齢化と共に、票を減らしていく。衰退必定だ。

 

BBQだパーティーだ路上飲みだと、騒がれることがある。長引く自粛による精神的抑圧、非常事態宣言の経済への影響、それはそれで考慮する必要があるだろう。だが、選挙支援で外出するのは狂気以外の表現方法がない。そんな人が同じ家族であるという事実。ありふれた狂気に気が触れていく。

創価学会の女性について

女性部とかいう組織が発足するらしい。敗北や衰退を正面から受け入れられない組織。創価学会少子化はとんでもない速度だから、もうどうあがこうと、未来なんてないのだ。

創価学会の会員数について(圧倒的な少子化) - 狂気従容

創価教育機関の余命 - 狂気従容

 

それはそれとして、創価学会の女性について、独断と偏見で書かせてもらう。過去に何度か記事にしているが、私は女性と個人的に親しくなった経験がない。その辺を考慮して記事を読んでもらいたい。またそもそも論で恐縮だが、性別を限定しない創価学会員の評価になるような気もする。

 

私は八王子で生活していた頃、多くの創価学会員と触れ合う機会があった。学生部の同期はもちろんだが、先輩、後輩、四者組織(八王子創価学会)も含めればそれなりの数の学会員と接してきたと思う。もちろん、女性会員も含めだ。

 

彼女達を一言で表すのは困難だ。当たり前だが、特定の集団に所属しているからと、その構成員のパーソナリティー、メンタリティーなり特質なりを、一括りで話すことなどできない。敢えて一言で表現するならば、優しい人が多かった。女性に限らないが、八王子は創価大学で出会った人達は、親切で優しい人が多かった。私が同じ学会員だから、閉鎖コミュニティー特有の同族へのシンパシーがあったのかもしれない。あるいは、同じ学会員ということで信頼してくれたのかもしれない。それはわからない。

 

いずれにせよ、優しい女性が多かったというのが私の印象だ。社会に出て、世間の女性を(職場において)知ったが、八王子でみた創価の女性達に比べればドライな印象だ。もっとも、それが職場と大学の違いなのかもしれないし、職場での私の振る舞いが原因なのかもしれない。

 

かつてに比べ、私が居た当時であっても、「創価大学生は垢抜けた」と評価され続けた。今なら尚更だろう。「俗っぽくなった」とも言えるだろう。当時、私もそう感じていた。私は、「俗」と「下衆」は別だと思っている。俗っぽいを悪い意味で捉えていない。世間の女性と創価の女性、そこに大きな違いは無いと思う。普通とか標準からブレまっくた私が言っても説得力がないかもしれないが、創価の女性は普通だと思う。少なくとも私には、「平均より親切な人が多い」以外に、世間の女性と創価の女性との差異を見出すことは出来なかった。ただ創大生が優しかっただけかもしれないが。

 

上記の文章は、人によっては違和感を感じるかもしれない。朝晩の勤行、池田名誉会長への忠誠、組織活動への参加、選挙支援等、世間の女性には当てはまらない、「普通じゃない」要素が多くあると。

 

世間からも創価の世界からも落ちこぼれた私が見たところでは、そうではない。彼女達は普通の範疇だ。ただ世襲した宗教が創価学会だったというだけだ。本質的な部分で、標準値を飛び出しているというわけではない。多くの人は、まともな家庭で一定以上の情操教育を享受でき、喜怒哀楽と無私の愛を知っている。一部の毒親育ちは別だが、頭のイカレタ両親と言うのは信仰の有無に関係なく存在する。宗教はそれを悪化させますが。

 

創価の女性が、日蓮遺文の研究に注力したり、政治学習会を本気で開催していれば、世間の女性との差異とも考えられるが、多くの方はそこまでしない。集団の中で自分の主張を発信し続けたり、打ち出しに反旗を翻したりする人も少ない。男性会員もやらないが。世間の女性も同じだろう。家の宗教の教義を学ぶ人は少数派だろうし、政治集会に参加する人も少ない。偏見で言わせてもらうと、文献を基にした教義研鑽への執着は男の方が強いと思うが、総数として男女に有意差は無いと思う(どちらも極少数だから)。

 

世間体や付き合いから、乗り気でない飲み会や町内会のイベントに参加する。それを面白いと思うこともあるだろう。有意義と感じる場合もあるだろう。女性部員が会合に参加するのと変わらない。会社で応援する候補がいれば、演説への動員くらいには参加するだろうし、知人にも頼んでほしいと通達されれば頼むだろう。明文化されているわけでもないのに昼になればお茶を用意するし、毎日ゴミ出しもする。生活上の慣習として信仰が必要な環境に生まれれば、個人差はあるだろうが、適当に折り合いつけてやっていくだろう。男もそうだ。

 

信仰の有無が時に人付き合いのハードルになり、差異として認識されがちだが、人付き合いに条件が付くのは何も信仰に限った話ではない。趣味に熱中すぎる人は、男女共に相手を選ぶことになるだろう。

 

婦人の一部は嫁姑問題を抱えるだろうし、子育てに失敗する人も居るだろう。世間の空気や時代の潮流に自分の思想を染められもすれば、旧来の価値観-例えば女性は子供を産んで当然というような-に縛られたり、それを人に強要する人もいるだろう(もちろん男にもいるぞ)。創価の家に生まれれば、それが信心で解釈されるだけだ。極端な差はない。教条的な人、盲目的に何かを信じてしまう人、所属組織に染まってしまう人、パワハラ体質の人。それが引き継いだ信仰なのか、地域の旧習なのか、日本国の空気なのか、会社の風土なのかは、個々の環境に起因することだろう。

 

敢えて例外を挙げるならば、一部の極端な婦人部活動家は世間の女性とは違うと思う。会社でも、家庭でも、町内会でもない場所で、熱意をもって活動する女性と言うのはそう多くない。慣習として、そこまで必要とされていない行為だ。ギャンブルやレジャーにのめりこむのが近いと言えば近いかもしれないが、毎日やる人は極少数だろう。もちろん、壮年男子の活動家にも当てはまる。ただ、平日昼間の活動主体は婦人部なわけで、婦人部活動家の存在と言うのは、創価学会の特異性に寄与していると思う。

 

ツラツラと書いたが、特に性別に関係なく、創価学会員への評価になったような気がする。要は、生まれ育った環境や周囲の慣習から飛び出て、自己主張始める人は少数派だよって話です。また、そこに性別は関係ないかなって。

20021年 東京都議会議員候補 Salemのマニフェスト

本記事はブラックジョーク溢れる風刺の世界です。不謹慎な発言をします。倫理的に際どい表現を含みます。人によっては不快な思いをします。また架空の話であり、Salem立候補はありません。最後の項目を除き、思想的な本心でもございません。承知の上でお読みください。嫌な方はブラウザバックでお願いします。

 

        20021年 東京都議会議員候補 Salem マニフェスト

 

1. 自殺専用線の開通
人心事故による電車の遅延で嫌な思いをしたことはありませんか?都心で生活していると一度は経験するかと思います。自分の貴重な一分一秒を奪われるのは耐え難い。そこで私は、自殺専用線を開通させることを約束します。自殺専用線をつくることで、自殺企図者が他の路線を使用しないようにいたします。先頭車両の前面に装甲版ドーザーを設置し、確実な自殺を約束します。自殺を志望する方にとっては、専用の路線を用意することで電車遅延および二次被害による損害賠償発生リスクを取り除くことが出来、安心して飛び込むことが可能となります。自殺専用線であるため、人心事故による遅延は一切発生しません。通勤者にとっても自殺者にとっても、非常に効果的な施策であります。

 

2.  パパ活の促進
現実の話として、ある一定数の女性は風俗や水商売で働くようになります。全国で30万人、20代女性の5%が風俗産業で働いているという試算もあります。不運にもモラ夫と結婚してしまい、ストレスフルな愛の巣を築く方もいます。離婚して、経済的に厳しいシングルマザーをされる方もおります。政治とは、常に現実的でなければありません。世の中の一定数の女性は、どの道困難な人生を歩むのです。残念ながら現在の厳しい経済状況においては、それを助けるだけの予算がありません。そこで、共助の精神の下、経済的に余裕のある中年男性に支援していただき、未来ある就職先を見つけるまでのシェルターとして、パパ活を促進させます。まずは、安心してご利用いただけるパパ活アプリを開発し、効率のよいパパ活をサポートさせてもらいます。

 

3.  外国人労働者居住区の設立
現在の日本において、外国人労働者は必要不可欠な存在です。あらゆる産業が、外国人労働者技能実習生を必要としています。外国人労働者の数は、2019年には165万8000人と、5年前の約2倍の人数にまで増加したというデータが存在します。しかしながら残念なことに、雇用のミスマッチングから、外国人労働者の退職や失踪が後を絶たないのが現状です。2018年には、9000人を超える失踪者が記録されています。そこで、外国人労働者居住区をつくり、その中で生活していただくことで、安定した雇用の供給と、外国人労働者の生活を保障します。「労働は自由をつくる」という価値観を尊重し、外国人労働者居住区を設立いたします。

 

4.  ひきこもりポストの設立
8050問題の解決は、待ったなしの状態にあります。国が実施した、平成30年度調査の結果によりますと、全国の満40歳から満64歳までの人口の1.45%に当たる61.3万人がひきこもり状態にあると推計されています。
https://www8.cao.go.jp/youth/whitepaper/r01honpen/s0_2.html
2007年に熊本市において設立された赤ちゃんポストは、全国的な広がりを見せておりませんが、今必要とされてるのはひきこもりポストであります。匿名で、ひきこもりを預けることが出来るポストを設立することにより、安心の老後を約束いたします。

 

5.  宗教五輪の開催
日本国一丸となって東京五輪の開催にまい進している現在ではありますが、今一つ盛り上がりに欠けているのが現状ではないでしょうか。スポーツの祭典、それもいいでしょう。しかしながら、21世紀にふさわしい新しい祭典が必要なのではないでしょうか。そこで私は、宗教5輪の開催を誘致するものであります。宗教に寛容で、どの様な信仰も厚くおもてなしできる日本国、その首都東京で、各国地域の信仰者を募り、宗教の祭典を開き、観光業と宿泊業に活性化の息吹を与えることを約束します。メイン会場は、東京信濃町を予定しております。政府与党と協力し、世界に誇れる日本の宗教を世界に紹介しようではありませんか。

 

6.  道徳の大学入学共通テストへの導入
道徳教育が、特別の教科となって久しいですが、教育と言うものは、テストによって評価、反省、復習することによって身に付くものです。道徳を大学入学共通テストに導入することによって、より具体的な振る舞い、言葉使い、心使いを習得することが出来ます。正しいマスクのつけ方などの細かい部分から、所属集団への心配りまで、日本人として恥ずかしくない生き方を身に付けるため、道徳を大学入学共通テストに導入いたします。

 

7. 弱者男性支援
男性の生涯未婚率が25%近くなる中、経済的にも不安定で、自助、公助、共助の全てが成り立たない、弱者男性が話題となることが多くなりました。沈黙、服従、労働以外に許可される行為はなく、良くて孤独死、悪くて自殺、もっと悪くてテロリストの末路にございます。私自身、30も半ばになるというのに、伴侶は無く、異性経験に乏しく、夢破れ転職した挙句、サービス残業の日々を送っております。数少ない友人はコロナ禍で疎遠になり、両親家族との関係は破綻しております。そんな当事者だからこそ、現場を見てきた私だからこそ。その解決策を提案することが出来ます。VR空間の充実化、アルコール度数20%をこえる缶チューハイの販売、大麻草を原料にした医薬品の普及促進など、耐え難い現実を忘れさせてくれる支援を約束いたします。棺桶から墓場まで、充実した福祉政策を実行します。

 


くれぐれも真に受けないように。