狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

公明党と自民党の歴史(自公連立政権ができるまで)

今回は創価学会自民党について記事にしたいと思います。

 

尚、私は政治記者でもその筋の専門家でもございません。その点ご了承の上で、以下の文章をお読みください。公表されている情報や知人からの伝聞をもとに、私の推測も交えながらお話したいと思います。

 

まずは基本的なことをおさらいします。

 

創価学会は言論問題以降、自民党との距離を締め、またアメリカの存在を意識し始めたのか、創価学会にとってクリティカルな話題である安全保障問題への態度を1970年代後半より変化させ始めます。

 

在日米軍基地総点検など、安全保障問題に関して急進的であった創価学会が方向転換し、自民党との距離を縮めた1970年代ですが、その一方で、社公民路戦と言われるように野党との連携にも対応していました。1970年代から1980年代の創価学会は、自民党と他野党と是々非々で応じていました。

 

それが大きく変化するのは1993年の細川内閣成立(非自民・非共産政権)になるのですが、その手前、消費税導入問題(1989年に導入)の折、既に自民党サイドとひと悶着ありました。この辺りの混乱に関しては、矢野絢也公明党委員長が著書の中で簡単に触れているので各々確認していただきたいと思います。

 

創価学会の税務調査問題と、消費税導入、公明党創価学会内部の指揮系統の複雑さ、池田名誉会長の影響力(消費税導入を公明党の頭越しに自民党に了承したと矢野氏は記載)、そして宗創問題。1990年前後とはバブル景気の良さの陰に隠れ、多くの政治駆け引きがあったと推測できます(1992年のPKO法案成立も大きなテーマでした)。

 

自民党内部(竹下派閥)の混乱、小沢一郎氏の活躍などで自民党結党以来はじめて非自民党政権が成立した1993年。この時期の創価学会と言えば第二次宗創問題の火中でした。

 

政治の世界も大混乱。細川内閣は短命に終わり(1年もたなかった)、その後誕生した羽田内閣は更に短命で倒れます(2ヵ月!)。最終的には1994年6月30日に自民党社会党が連立して村山内閣が誕生するわけですが、翌年1995年の参議院選挙で投票率45%前後(現在までで最低の投票率)と、これまでの政敵同士の連立は日本中を呆れさせました。

 

1994年12月、新進党が結党されます。これは創価学会にとっても大きな転換点……になるはずでした。様々な勢力が結集して、公明党も解党して(地方は健在)、結成された新進党。当時の創価学会は宗創問題に政界再編にと鉄火場もいいところだったでしょう。

 

新進党は1996年の選挙で敗れ、1997年に解党、公明党も復活するわけですが(その2年後には自自公連立政権の誕生)、この時期の自民党創価学会四月会問題で大いに喧嘩します。細川内閣成立以降、自民党との対決を(表向きには)明確にした創価学会は宗創問題の混乱もあって、週刊誌を中心に多大なパッシングを受けました。

 

1995年にオウム真理教地下鉄サリン事件を引き起こし、日本社会全体が宗教団体に批判的になっていたこともあり、宗教法人法の改正、秋谷会長(当時)の国会参考人招致と、創価学会の置かれた状況は、オールエネミー・フルスケールカオスという状態でした。

 

次に、創価学会公明党の関係を簡潔に振り返ります。

 

1970年代から、池田名誉会長、創価学会および公明党が必ずしも一枚岩ではなかったことは外交公電より明らかです。創共協定が池田会長(当時)の独断で学会執行部や公明党の頭越しに進められるなど、池田大作氏、創価学会公明党がある程度独立して機能して(牽制しあって)いたことは事実です。


池田名誉会長を含め、創価学会公明党の持つチャンネルにそれぞれ多様性があったことを示唆していると思います。組織運営の効率は悪く、未来へのグランドストラテジーが学会・公明党の双方に存在したかはかなり疑わしいですが、現在の創価学会の傘下に公明党ががっちり組み込まれている状態とは異なっていたと言えるでしょう。

 

竹入義勝氏、矢絢也野氏(多方面にパイプ)、石田幸四郎氏、市川雄一氏(一・一ライン)、草川昭三氏等。学会側では秋谷元会長、山崎尚見氏(竹下総理に近い)、八尋頼雄氏(米国大使館との連絡役)、西口良三氏(関西のビックボス)、竹岡誠治氏(野中広務氏とコネクションがあった……竹岡光城前青年部長の父親)など。あまり表に出ませんが、広報室関係の方(西口浩氏)や野崎勲氏にも政治的役割があったと思います。窓口がいくつもあったわけです。

 

細川内閣成立から自公連立政権成立(正確には自自公)までの間、自民党内部には派閥争いがあり(経世会とかYKKとかの時代ですね……宮澤内閣の不信任案可決やら小沢一郎氏も全盛期ですか)、創価学会内部においては、幾つかの窓口が自民党との間に築かれていました。自公連立政権誕生までの政界再編を考えるとき、(世間や学会員が忘れがちな)創価学会公明党の指揮系統の複雑さに留意する必要があるでしょう。竹入氏・矢野氏が政界を引退したのが1990年代前半。世代交代という意味での混乱もあったのかもしれません。

 

秋谷元会長はご存知の通り、票読みの秋谷と言われるくらい選挙に強い方でした。秋谷元会長が選挙に強かった理由は様々あると思います。竹入・矢野元公明党委員長のような多様なパイプを持つ公明党草創期の政治家と一緒に仕事をできたことや、同じ早稲田同窓の青木幹雄参議院幹事長とつながりがあったことなどが理由として当てはまるでしょうか。

 

余談ですが、秋谷元会長と比較して原田稔現会長はそう言ったパイプをあまり持っていなかったのか、2007年参院選、2009年衆院選において公明党は敗北。2009年末の本部幹部会において「原田、お前になってから一度も勝てないじゃないか」と名誉会長に叱責されたという話を、本部幹部会本会場出席者から伺いました。

 

数年前亡くなられた、野中広務官房長官は自公連立政権を支えたキーマンであると思いますが (国税問題絡みで創価学会を落としたともいわれています)、この野中広務氏と関係が深かったのが竹岡光城前青年部長の父親、竹岡誠治氏です。竹岡氏が自身のHPで紹介しています。以下リンク先になります。

 

http://sun-lotus.com/voice6/

 

池田名誉会長、創価学会公明党は「一糸乱れぬ」統制があるように思えて内情は複雑だった。それぞれが独自にパイプを持ち、関係組織とやり取りをしていた。これまでの創価学会自民党の関係を批評する上で考慮すべき重要なポイントだと思います。

 

全てが池田名誉会長の責任でも功績でもなく、池田名誉会長の意図や意思がどの程度反映されていたかは事案次第であり、真っ黒or清廉という単純な図式では説明できません。

 

末端会員と非学会員の多くは、池田名誉会長=創価学会公明党と考えがちですが、それは違います。その上、池田名誉会長、創価学会公明党のそれぞれに明確な目的や意思(作戦や算術)が常にあったとは限りません。この点を意識して批評しないことには、池田名誉会長=創価学会公明党と捉えた上で矛盾の無い分かりやすい一本の物語を、黒か白かの、創作することになるでしょう。

 

個人的には、細川内閣参加→新進党→公明復活→自自公連立の大移動劇は、池田名誉会長のスタンドプレー、宗創問題の混乱、元来からの指揮系統の複雑さが関係各所を引っ掻き回した結果ではないかと考えています。

 

小沢一郎氏との接近はあったにせよ、その他の自民系議員との関係が切れたわけでもなく(だからこそ1993年からの6年間で寄りを戻せた)、幹部の意見が一致していたわけでも、池田名誉会長が常に明確なプランを保持していた訳でもないでしょう。

 

宗教論争と政権再編が爆発した1990年代前半、青年部の最高幹部に就いていたのが正木正明氏(前理事長)、谷川佳樹氏(主任副会長)、佐藤浩氏(副会長)の3名です。宗創問題が勃発した1990年末、全国青年部長は正木氏、全国男子部長は谷川氏でした。彼等が、激動期の現場責任者だったわけです。

 

菅(現首相)-佐藤ラインで話題の佐藤浩氏が青年部幹部として動いていたのは、丁度1990年代~2000年代前半(2003年か4年くらいまで佐藤氏が全国青年部長だったはずです)でして、四月会問題を経て自公連立が成立する時期です。

 

菅氏の初当選は1996年、新進党から出馬した公明系候補を破り当選しています。その3年後には自自公連立がスタートします。菅氏と佐藤氏は、大舞台におけるキャリア開始時期が被っていたと言えます。ちなみにですが、安倍前総理が初めて選挙に出馬し当選したのは1993年です。

 

菅氏はもともと反創価学会キャンペーンを隠さない人物だったそうですが、自公連立政権誕生以降、表立って学会批判は行っていません。菅氏は1996年の次の選挙(既に自公連立済み)において、神奈川創価学会四月会時代の総括をさせられたとのことで、しばらくは創価学会批判に旨味が無いことを把握したのでしょう。

 

似た様な話として、福岡選挙区の山崎拓氏が自公連立下で選挙に出た際(2005年の補欠選に関連したエピソードと記憶しています)、九州創価学会幹部相手に「禊の儀式」があったと福岡出身の友人から聞いています。

 

当時の自民党の大将、橋本総理自身が反創価学会キャンペーンに関し、創価学会に謝罪したのですから、下々の自民党議員は党の方針に従っただけなのかもしれません。四月会問題が激しかった頃、橋本総理が八王子駅前における演説で「八王子を創価学会の街にしてしまっていいですか!」とぶち上げてしまい、自民党員と八王子男子部員が言い争いになったと、創価大学の先輩から伺ったことがあります(それが今では萩生田-東村の仲……)。橋本総理がまず「手本」を見せる必要があったのでしょう(内心内情はともかく)。

 

佐藤氏に限りませんが、宗創問題当時の青年部を動かしていた幹部達は「対日蓮正宗」「対山崎正友氏」「対共産党」など複数の観点から、各種重要情報に触れる機会が幾度もあっただろうと私は推測しています。この対外情報収集という点で活躍したのが、北林芳典氏です(暁闇とかの作者さんです)。北林氏は前述の竹岡誠治氏と懇意であり(竹岡誠治氏が北林氏の書籍にも出てきますし)、山崎正友氏の元部下でもありました。

 

その様な状況下にあって、佐藤氏に限らず、正木氏も谷川氏も、本人が望んだかどうかは別にして、政治的な情報に触れる(場合によっては顔合わせする)機会がそれなりにあっただろうと推測します。

 

様々な混乱を乗り越え1999年に成立した自自公連立政権。以前との違いは何でしょう。

 

創価学会自民党のチャンネル・パイプが集約されてしまったことが大きな違いであると、私は考えています。この20年程でお互いの重鎮が引退してしまい(あるいは亡くなってしまい)、創価学会自民党のパイプに以前ほどの多様性が存在していません。繰り返して既述したように、かつての創価学会自民党は複数のチャンネルで繋がった、多様性のある関係でした。それが、一本線の関係に変化したのではないか。

 

まず池田名誉会長がいません。矢野元公明党委員長はとうに引退していますし、秋谷会長世代もかなりの高齢です。今の公明党の議員に、創価学会を無視して勝手に顔を広げられる人物はいないでしょう。自民党側においても、参院のドンこと青木幹雄氏は引退(現在84歳ですから)、自公政権誕生のキーマン野中広務氏は亡くなり、YKKの各員も引退or死去。創価学会と独自にやり取りできる方として、二階俊博氏が残っていますかね(かなり高齢ですが……)。