創価学会の教義問題を考える上で、まず把握していなければならいことがあります。創価学会に限らず、他の宗教団体にも言えることかと思います。経典の真偽についてです。
教義論争の多くは、遺文の真偽判断、取捨選択作業に帰着します。創価学会で言うならば、日蓮が残した文章がテーマになることが多いでしょう(その先に釈尊)。
日蓮という人物が残したとされる文章は、以下5つに分類されます。
- 日蓮自身が書いた文章が現存しているもの(真筆)
- かつて真筆文章が存在したけれど現在は失われてしまったもの(本当 にかつて存在したかどうかの信頼度も議論の対象になる)
- 写本が残っているもの(写本にも様々あり、直弟子の写本は信用度が高い)
- 真偽未決のもの
- 偽書と断定されているもの
現在、日蓮が記したとされる文章のうち、約4割に真筆が存在し、写本などにより全体の6割程度が日蓮が残した文章であると考えられています(小林正博氏「日蓮文書の研究(1)」より。ネット上で無料閲覧できるPDF形式の論文です)。残りの文章に関しては、真偽未定あるいは偽書です。
私自身は、日蓮研究家でも日蓮遺文のプロでも何でもないので、どの文章が日蓮真筆か偽書かについて、積極的には触れません(触れても価値ある話を多分できません)。
本当に重要なのはその先。日蓮自身の法華経解釈や、法華経やその他経典そのものは、真偽論争に巻き込まれないのか?という点です。以下、注意すべき課題を羅列します。
- 法華経その他諸経(特に大乗経典)がそもそも論で歴史上の人物としての釈尊の直筆でないという観点から、仏教の在り方を問うことになりうる。
- 歴史学上の大乗非仏説をまず受け入れて、その上で日蓮遺文を解釈する。この場合、日蓮とは違うスタンスになる。日蓮は法華経を釈尊の直筆と考えていたが、これは学問的には否定されている。
- 法華経そのものへの言及(成立過程に対する意義、経典内容への価値判断等)
- 法華経以外の経典への言及(日蓮が遺文のなかで法華経以外の経典からも多数の文章を引用していることに関連、また日蓮自身が法華経以外からも影響を受けているなどの観点)
- 法華経翻訳過程への言及(日蓮が読んでいたのは鳩摩羅什という方の翻訳なので、その翻訳への批評なり価値判断)
- 歴史上の人物としての釈尊への言及(教団運営、組織化、釈尊に特定の思想をまとめ上げる意思があったか等)
創価学会の教義に一貫性がないことは、散々語られてきました。調べればすぐにわかることです。本当に重たいテーマはその先、日蓮の経典解釈、鳩摩羅什の経典翻訳・解釈、サンスクリット経典の整合性、そして釈尊の扱い。仏教をそもそも論で検討することです。
創価学会に限らず、日本における仏教団体において、経典の真偽問題(それは教団の一貫性に密接につながりうる)はサンスクリット原文の研鑽を必要とし(それも困ったことにサンスクリット版も一つじゃなかったり)、多くの場合、自団体の教義解釈と齟齬を生じさせることでしょう。
現状、日本人の多くは宗教の教義などに興味を持っていません。そのおかげで、日本の仏教団体は、その研鑽の必要に迫られていません。幸か不幸か……
私は創価学会の話題に触れることが多いですが、創価学会の批評に傾倒すのではなく、そもそも論として、日本に仏教は存在するのか?という大きな課題がその背後にあることを忘れないようにしたいです。
それは、21世紀の宗教の在り方、体系化された思想の行方を考える上でも、重要なことだろうと思います。