狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

創価学会の教義問題(大御本尊関連)

創価学会の教義問題ということで、大御本尊にも触れておきます。面倒なので、大御本尊の真贋論争および日蓮本仏論の文献学的な推察に触れません。まぁ、インターネット時代、調べればすぐにわかることです。

 

大御本尊とは何か、非学会員の方にもわかりやすく説明すると、かつて創価学会の信仰のマスターピースだった板曼荼羅本尊です。2014年の教義変更の際、話題になりました。

 

日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊を日興以来日蓮正宗(と途中から創価学会)が実践、主張してきた日蓮仏法の化法であると条件設定します。その上で話を進めます。

 

日蓮=大御本尊である…1
各人が拝する曼荼羅本尊は大御本尊の分身散体である…2
よって、曼荼羅本尊=人法一箇の本尊…3

 

上記1-3の教義が一般的に運用され始めたのは、比較的近年、戸田城聖入信以降だと思われます。情報の出典が創価大学の宮田教授のHPからなので、人によっては価値の無い情報かもしれませんが(あるいはとっくにご存知かもしれません。その場合はすみません)、日蓮正宗においては、文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊としてきた歴史があるそうです。

 

この、文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊、という発想は、日蓮が御影本尊を信仰の対象として奨励していない以上(そういう遺文を私は知りません)、本尊義(化法)をその後の法主が勝手に変えたことを意味していると思います。

 

創価学会では、戸田城聖以降、上記1-3の教義が一般的になりましたが、日興以来日蓮正宗が実践、主張してきた日蓮仏法の化法とは言えません(文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊という歴史を経ていますので)。

 

日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊、日蓮=大御本尊、曼荼羅本尊=大御本尊の分身散体、曼荼羅本尊=人法一箇の本尊」を日蓮仏法の化法であると条件設定すると、今の創価学会の教義(2014年以降)は日蓮仏法ではありません。真贋に関係なく、大御本尊を受持の対象としない時点で、化法に手を付けています。

 

ですが、前述したように、日蓮正宗は、日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊を採用していたと彼らが主張する時代においても、本尊義に手を付けています。創価学会誕生以前から日蓮正宗は化法とされる部分に変更を加えています。

 

また、創価学会日蓮正宗の伝統教義を踏襲したわけではありません。戸田城聖は、それまでの本尊体系(大御本尊、文字曼荼羅日蓮御影)を「大御本尊‐文字曼荼羅」に集約したわけですから、かなり化法に近い部分を変更していると思います。加えて、牧口常三郎は、日蓮御影を保有していたそうです。化法の部分において、牧口≠戸田だったと言えるかもしれません。

 

以上のように、大御本尊と日蓮本仏論の文献学的な考察に触れなくとも、日蓮末法の御本仏、出世の本懐=大御本尊は日蓮仏法の化法であり、日興以来日蓮正宗(と途中から創価学会)はその化法にのっとり活動してきた(そしてそれを創価学会が受け継いだ)という主張は、成り立たないでしょう。

 

要は、もともと無理のある主張だったということです。一貫性のある物語を構築することは不可能です。

 

今更大御本尊に興味を持つ人もそういないでしょうが、板切れ1枚に1千万人以上が(そして日本全体が)影響を受けた戦後日本社会、なかなか思うところがありますな。