狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

創価学会の教義問題(知られていた矛盾と今後の課題)

これはある壮年の信濃町関係者から伺った話です。
かつて創価学会には、池田名誉会長を囲んでの教学研究会のようなものが存在したそうです。


池田氏は教学の専門家ではないので、遺文の解釈にしても、周りのブレーンの意見を参考にします。昔は原島崇氏が有名で、池田氏本人が教学関係の書籍で原島氏への感謝を述べています(昔の立正安国論講義等で確認できます。茶色いカバーに入った分厚い書籍です)。

 

メンバーには、創価大学の宮田教授や中野毅教授、故斉藤克司氏など創価学会の教学関係のブレーンにあたる方々が含まれていたそうです(菅野教授、野崎勲あたりもいたかもしれません)。

 

場所は熱海で開かれたと聞いています(毎回熱海だったのかは不明です)。彼等は池田大作と共に、日蓮遺文、日蓮の歴史を検証したかと思います。宮田教授のHPにもそれを匂わせるような記述が存在します。

 

何が言いたいかというと、今叫ばれているような教義上の矛盾、日蓮自身の矛盾、日蓮正宗の非一貫性、牧口、戸田の独自解釈等の諸問題、池田大作(と学会執行部)はとうにご存知だったということです。

 

牧口、戸田は今でいうところの単純な反戦の闘士ではなかったこと(命を賭して自身の信仰を貫いたという点に依存はありません)。大御本尊の歴史的な成立過程についても知っていたでしょう。

 

東京大学法華経研究会は、日蓮正宗創価学会に関連する何冊かの書籍を出版していますが(私は1975年に出版した「創価学会の理念と実践」という書籍を保有しています)、彼等が書籍を執筆する過程で日蓮正宗及び創価学会の実際の歴史を知ることになったであろうことは容易に想像できます(この辺りの部分も宮田教授のHPにそれとなく記載があります)。

 

創価学会は、早い段階から(第一次宗創問題前から)自分達が教義的に危うい立場にあることを認識していたのです。第一次宗創問題、昭和52年路線の時点で池田大作創価学会の首脳部は教義上の矛盾を十分把握していました。

 

2014年の教義会則変更も、1979年、第一次宗創問題の延長線上にあります。
但し、1979年当時は日蓮正宗との分離は考慮されていなかったと、私は考えています(私は、創価学会日蓮正宗との分離を決意したのは、1980年代後半だと推測しています)。

 

第二次宗創問題で創価学会日蓮正宗と分離しますが、教義会則の改定は段階的に行われます。2002年の変更と2014年の変更です。日蓮正宗時代と比べ、創価学会の教義内容で大きく異なるのは弘安二年の大御本尊の扱いです。

 

日寛書写の曼荼羅本尊を創価学会が独自に流布するようになった1993年当時、大御本尊は創価学会の教義の中心に近い部分にありました。2002年の会則変更以降は、教義の中心として強調されることは少なくなりました(2002年発行の「教学の基礎」を読むとよくわかります)。

 

教義会則の文言としての変化ではなく、新聞や指導で大御本尊が強調されることが少なくなりました。2002年以降の本部幹部会で、弘安二年の大御本尊に言及することが何回あったでしょうか。私の記憶にはありません。

 

弘安二年の大御本尊は、2014年の会則変更で創価学会の教義とは関係の無い曼荼羅本尊となりました。創価学会執行部は、日蓮正宗と分離後20年以上かけて、会員の教義理解の中心から大御本尊が消え去るように努力した。私はそう考えています。

 

指導などで引用させる遺文(御書)も時間と共に変化したと思います。2014年の改定以降は特にそうですが、御義口伝の様な日蓮正宗要素が強い遺文の引用が減ったと感じています。百六箇抄、二箇相承はほぼ見なくなったのではないでしょうか。こちらは2002年以前から減っていましたね。

 

創価学会は明文化された教義会則だけでなく、指導などで引用する遺文の露出を調整することで、学会員の教学理解をコントロールしてきました。

 

私は、教義を変更すること自体は特に構わないとお思います。重要なのは、仮に日蓮遺文中心で会の教義を構成するにしても、遺文の取捨選択基準をしっかりと公表すること、教義解釈に筋を通すことではないでしょうか。

 

またその先にある課題、そもそも論として日本に仏教は存在するのかという大きなテーマにも挑まざるを得ないでしょう。そして、衰退著しい宗教界について、21世紀の宗教団体はどうあるべきか、考える必要も出てくると思います。

 

要は、これまでの教義との整合性にこだわることなく、ゼロから作り上げるつもりで、真摯に必要な課題に取り組む必要があるってことです。そうでなければ、衰退著しい宗教界、21世紀を生き残れませんよって話です。創価学会に限らない話です。