狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

野党が公明党をガチ批判しない理由

Twitterで「自民公明維新電通日本会議いりません」というタグがトレンド入りしていた。公明党の扱いも、そういうレベルになったのだなと、ここ20年くらいの変化に驚いている。

 

今の自公連立政権、野党側が公明党を批判する機会は少ない。自民党に比べ図体が小さいから批判してもインパクトがないと言えばそれまでだが、小選挙区での協力体制含め、今の自民党を支えている最大勢力である公明党創価学会)を批判しないのは、不自然である。

 

思うに野党側は、創価学会が弱体化し、学会の公明党支援が困難になるタイミングでおきる政変、その後を見据えているのではないかと思う。

 

最後に手を差し伸べてきた相手よりも、最後に殴りかかってきた相手を覚えているのが人間でしょうか。創価学会が弱体化し、公明党が国会での議席を失ったとしても、全国200~300万人(その頃にはこの位の数字でしょう)の創価学会員が消えていなくなるわけではない。

 

選挙区で数千から数万人、全国比例で200万票。自分から捨てに行く馬鹿はいない。自公連立政権が無くなっても、創価学会票は消えない。今、公明党批判をすれば、将来における学会票を失うことになる。そんな計算が、野党にはあるんではないでしょうか。

 

ソフト路線に舵を切って久しい日本共産党であるが、かつては創価学会公明党を厳しく批判の対象としていた。彼等の本来筋での主張に従うならば、今の創価公明を批判しない理由がない。将来の選挙戦術のために、創価公明批判を封印しているんではないかと思う。立憲民主も同じ。

 

政党として最後に学会批判を行ったのは民主党なわけだが、その時のイメージから、創価学会員の立憲民主党への評価は劣悪である。アレが無ければ、自公連立も、違う形になっていたかもしれない。

 

大坂都構想で煮え湯を飲まされた大阪維新の会、正面からガチンコ勝負を挑んでいたら、違う未来があったかもしれない。結局のところ、地元地域における学会票を無視できないのである。

 

例外は、独自路線を突き進む「れいわ新選組」くらいか。もっとも彼等にしても、創価学会を真正面から批判したりはしない。れいわ新選組とか日本共産党にとって、創価学会員は潜在的な支持者である。少なくとも、立憲民主党支持者や旧来からの自民党支持者に比べれば、味方につけやすい相手である。それを切り捨てたりはしない。

 

今の連立政権を支えているのは、間違いなく創価学会員の選挙支援活動なわけだが、それに対し、誰もまともに切り込まない。本気で自公連立政権を潰しにかかる気概がないのである。敵対はするが、将来の票を失うという貧乏くじを引きたくない。そういう魂胆がうかがえる。

 

学会員は選挙支援をやめない。多くの政争を経て、学会員は自民党を選んだ。それで彼等の生活が豊かになっているのか、公明党の理念と合致しているのか、よくよく検証する必要があると思うが、ともかく、彼等は選挙支援をやめない。

 

そして野党は公明党を正面から批判しない。将来の票を失うのが嫌だから、政権奪取のための本気の勝負をしない。時期を図っている。一部の野党支持者は創価公明批判を継続しているが、影響力は限定的だ。

 

自民党にしても、その支持者にしても、公明党の主張と相いれない部分があるはずだが、それを正面から争う機会は少ない。1990年代、徹底的に創価公明批判をした自民党だが、今は利用できるだけ利用する腹つもりなのだろう。そのための取引や妥協を惜しまないと。

 

かくして、自公連立政権は続いている。この後も、しばらく続くだろう。自公連立政権とは、与野党(とその支持者)の無関心と妥協の産物なのではないでしょうか。ある意味で、戦後日本政治の最終形態かもしれません。

 

創価学会の衰退に伴い政変があるのは確定的ですが、それまでダラダラと、誰が納得しているのか、支持者が報われているのかも検証されていない政権が続いていく。その間にも、社会は変化する(おそらく格差や矛盾は拡大する)。