狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

おすすめ軍事書籍ー普通の人びと

第二次世界大戦の中から最大の悲劇を選ぶとしたら、ナチスが実行したホロコーストだろう。数多の惨劇を歴史に刻んだ前大戦だが、ホロコーストとその周辺でおきた大量虐殺は、犠牲者の数でもその内容においても、群を抜いて酷い。

 

ナチスホロコースト関係の話題は、今なお様々な場面で取り上げられる。「ナチス」という存在が世界最高のフリー素材と化してしまったので、必ずしも真摯に取り上げられているかと言えば、ネタとして消費されている部分もあるが、それでも、ナチスホロコーストの存在は、戦後80年近くたった今なお、人々の関心事である。

 

そんなわけで、ホロコーストに関連した書籍というのも大量に出版されている。一部のトンデモな部類(ホロコースト否定論など)に属するような書籍を除けば、ホロコースト関連の書籍は、犠牲者を弔う、学術的にナチスホロコーストを考察する、加害者を糾弾するの3点に集約されるのではないかと思う。ある程度名の通った書籍なら、読んで損はないと思う(と言いつつ、アンネの日記を未読だったりする私)。

 

今日紹介するのは、ホロコーストに参加した、つまり虐殺行為に及んだある部隊を追跡調査した書籍。タイトルは「普通の人びと: ホロコーストと第101警察予備大隊」。

 

この本、しばらく絶版になっていた時期があったのだが、2019年に増補版が文庫化され、私が読んだのもそれである。

 

虐殺というのは、一部の狂人が実行するもの、あるいは一部の狂人にしか実行できない行為、と考えている人もいるかもしれないが、それを真っ向から否定するのがこの書籍、「普通の人びと」である。

 

第1回目の書籍紹介で、戦争の本質たる殺人についてとりまとめた書籍を紹介したが、「普通の人びと」はその極地ともいえるホロコースト、大虐殺に関与した人達をテーマにしている。

 

調査対象となっている第101警察予備大隊に関して、簡単に説明すると(ここが一番重要なのだが)、同隊は精鋭の職業軍人集団でも、ナチスの思想教育にどっぷり浸かった政治色の強い部隊でもない。

 

同大隊の構成員は、元トラック運転手や港湾労働者、機械技師、船員、セールスマン等、元々別の職についていたが、第二次大戦に伴い徴収された、「普通の人びと」だ。下士官および将校の側(つまり管理職)には、元々の警官とナチズムに染まった男が多少揃っていたが、末端兵士は完全に一般人である。

 

軍事訓練を受けるにせよそれで戦争が出来るのか?という疑問が湧くかもしれないが、第101警察予備大隊は、2線級の治安部隊(つまり最前線で敵主力と対峙する任務を想定されていない)なので、それでヨシとされたのである。

 

当時のドイツにおける警察部隊の位置づけ、警察組織の分類等は、話が長くなるので割愛する。簡潔に言うならば、当時のドイツには、正規軍(ドイツ国防軍)以外にも軍事組織(とその指揮系統)がいくつかあって、第101警察予備大隊はドイツ国防軍所属ではなかったが、治安維持任務を主眼においた、軍事組織としても機能する警察だったということになる。

 

さて、この第101警察予備大隊の何が話題になったかというと、バリバリの職業軍人でもイデオロギーの闘士でもない、元一般人の「普通の人びと」が、ユダヤ人の虐殺に大いに関与したところにある。一部の警察予備大隊は、虐殺任務に適合するよう、人員の配置、訓練、思想教育に特別な配慮があったが、101に関してはあてはまらない。管理職隊員の一部に、ナチス的な人物が見受けられる程度である。

 

ホロコーストへの関与がどの程度か具体的に言うと、直接的な殺戮数が少なく見積もって38,000人、絶滅収容所への輸送数が45,000人である。直接的な殺戮は、銃殺が大部分を占めている。大隊の構成員が約500人。僅か500人の部隊が83,000人の殺戮に関与している。単純に平均すると、1人当たり166人。除隊や転属等で人員の異動があり、500人が常に同一人物ということはありえないので、1人当たり166人は比喩表現に過ぎないが、恐ろしい数字である。

 

同書籍によれば、最初の虐殺を実行した際、虐殺行為への参加を明確に拒否したのは1ダースほど(10人ちょっと)、虐殺が始まった後、銃殺部隊からの離脱を示した者が10~20%と推定されている。多くの隊員は、命令を、つまり無垢の一般市民の虐殺を、実行したのである。

 

前回の書籍紹介で、兵士の発砲率について記載したが(リファレンスに難のある数字だったわけだが)、

おすすめ軍事書籍ー戦争における「人殺し」の心理学 - 狂気従容

80%の参加率は驚異的と言える。彼等の殆どは、戦闘経験や人間への発砲経験などなく、最初の殺人体験がユダヤ人1,800人の虐殺だったわけだが、それをやり遂げてしまった。差し迫ったの自身の生命の危機に対峙したわけでも、個人的に恨みを抱いている相手でもない。思想教育に染まっていない普通の人びとが、命令の下に一方的な虐殺を遂行したのである。

 

嬉々として参加したわけでも、苦悩がなかったわけでもないことが証言から確認されているが、それでも目的は達成されてしまったのである。隊員の多くは、虐殺終了後、浴びるように酒を飲み泥酔したらしいが、一部の隊員は気分を紛らわすため、虐殺中も酒を飲んだらしい。素面では耐えられなかったのだろうが、酔っぱらいながら虐殺に加担するというのは、狂気以外の何物でもないだろう。

 

同書籍では、虐殺の具体的な方法や、犠牲者の惨状についても詳しく記されているが、紹介するのは控えさせてもらう。文章にするのが躊躇われるレベルだからだ。

 

同大隊は1,800人の虐殺を通過儀礼とし、最終的には83,000人の殺戮に関与することになるが、彼等は最初の虐殺を経験したのち、少しずつ自分達の行為に慣れていき、殺戮を「こなせるように」なってしまったことが、紹介されている。著者の言葉を借りれば、「殺戮に関して感覚が麻痺し、無頓着になり」「幾つかのケースでは熱心な殺戮者にさえなった」とのことである。

 

まわりから攻撃されながらも、どうにかして殺戮に関与しないよう、工夫して行動した隊員は、全体から見れば少数派だったとのことだ。最初の虐殺事件において、命令を拒否した者は「弱虫」「くそ野郎」と同僚隊員から攻撃されたという証言が紹介されている。

 

同書籍において、なぜ「普通の人びと」が虐殺行為を実行してしまったか、実行できたのか、様々な角度から考察が展開されているが、大きな要因として著者が主張しているのは、仲間集団の圧力・集団への順応である。要は、虐殺命令を拒否して共同体としての大隊組織で孤立する怖さ(それも戦地で)と、虐殺命令に従い所属集団へ順応することを天秤にかけ、多くの隊員は後者を選んだということである。

 

集団からはみ出るというのは勇気のいる行為だ。狂気の現場で、殺戮の世界で、運命共同体から離脱して孤立するというのは、戦場も虐殺も経験したことのない私にはわからないが、波風立ててでも職場でのハラスメント案件、あるいは社会問題の解決等に立ち上がろうとする人物の少なさを考えるに、並大抵のことではないだろう。

 

今回紹介したのは、内容のごく一部である。同書籍においては、最初の虐殺を命じられた際の指揮官(管理職)の苦悩、ナチス的管理職隊員の蛮行、強制収容所への輸送任務の詳細、他の警察予備大隊との比較など、第101警察予備大隊というホロコーストの現場について、淡々と記載され、考察が展開されている。また増補版ということで、他のホロコースト研究を受けての追記、写真資料も追加収録されている。

 

あとがきやリファレンスも含めれば500ページを超える、テーマ的にも内容量的にも、かなり重い書籍である。エンターテイメントとして読むタイプの書籍ではないが、ナチスホロコーストの話題が度々取り上げられ中、手に取って有益な書籍であると思う。当時末端で何があったのか、省みる点はどこか、現代において学ぶべき教訓は何か、感じるところがあるはずだ。