狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

創価学会の教義問題(無量義経と戸田城聖)

無量義経」が「偽経(中国撰述)」であれば、創価学会は触れたくない難問を追加でオーダーすることになるでしょう。恥ずかしながら、私も今まで気にすることはありませんでしたが、「無量義経」が「偽経(中国撰述)」であれば、創価学会はかなり苦しい立場になります。なぜかと言えば、二代会長の戸田城聖は「無量義経」によって悟達を得たことになっているからです。気になる人は戸田城聖無量義経、悟達で調べてみるといいでしょう。

 

調べてみると、「無量義経」が「偽経(中国撰述)」であるとの指摘はそれなりに歴史があるらしく、特に近年湧き出てきた問題ではないようです。インターネット上では、複数の論者が研究結果を引用しながら「無量義経」について言及しています。人によっては、経典そのものをある程度読んだ上で判断しているでしょう。この手の真偽論争の常として、「無量義経偽経(中国撰述)説」に反論している方もおります。

 

私は経典を直接研鑽した上での研究結果を自分の言葉として述べられる様な知識・学識を持ち合わせていません。その上で、各論者の主張を読んでみた感想は「疑わしい」、つまり「偽経(中国撰述)」である蓋然性は高そうだと考えています。幾つか理由を書いても良いのですが、殆ど孫引きにしかならないので止めておきます。

 

一つだけ言及すると、創価学会も本心の部分では「無量義経」をインド撰述とは考えていないだろうことが、公式HPから推測できます。創価ネットの教学用語検索で、「無量義経」を調べてみればわかります。因みにですが、創価ネットの教学用語検索では「法華経」の項目において、サンスクリット原典の諸本、チベット語訳、漢訳(3種)があることに言及しています。更に、“経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。”と最近の学説を採用しています。

教学用語検索で調べればわかりますが、創価学会は、「無量義経」=「法華経序品で言及される無量義という名の経典」という発想がインドにおいて存在しなかったことを認めています。インドにおいて「無量義経」が法華経の開経であるという解釈が存在しなかったことを認めています。

 

前述したように、創価学会法華経が“経典として編纂されたのは紀元1世紀ごろとされる。”と最近の主流学説を採用しています。この、編纂地域がどこであったかと言えばインドです。釈尊滅後数百年の読誦暗唱を経て法華経がインドで編纂されたという学説を採用しつつ、「無量義経」は法華経の開経であるという解釈がインドにおいて存在しなかったことを認めています。

 

法華経と「無量義経」の間にもし関連性があるならば、インドにおいて、法華経と「無量義経」は関連性をもって暗唱読誦されていたことでしょう。法華経を暗唱読誦する地域と「無量義経」を暗唱読誦する地域はある程度オーバーラップしていたと考えるのが道理です。オーバーラップしていなければ、「無量義経」を法華経の一部と判断するのは厳しくなります。独立した地域で別々に暗唱読誦されていた経典に後世の解釈として関連性を持たせることは出来ても、成立過程に繋がりはありません。


無量義経」が法華経同様、釈尊の言葉なり真意なりを含むものとして、釈尊滅後のインドにおいて何らかの形で継承されてきたと仮定しましょう。その「無量義経」が「四十余年未顕真実」の「真実」は法華経であるとして、法華経の御膳立てをしている。それにも拘らず、経典成立過程において法華経と「無量義経」は独立しているというのは理論として破綻しています。

 

法華経の漢訳「正法華経(竺法護訳)」が、286年には成立。鳩摩羅什漢訳の「妙法蓮華経」が406年。「無量義経」の曇摩伽陀耶舎訳が481年。「無量義経」が法華経同様、釈尊の言葉なり真意なりを含むものとして、釈尊滅後インドにおいて何らかの形で継承されていたとすると、法華経に比べ随分遅れて漢訳されたことになります。

 

法華経と「無量義経」の経典成立過程に関連性があったとすれば、この漢訳成立年代のずれは奇妙です。法華経編纂地域と「無量義経」編纂地域がある程度オーバーラップしていれば、サンスクリット法華経に触れる過程でサンスクリット無量義経」に触れることになるでしょう(「無量義経」のサンスクリット本は確認されていませんが)。サンスクリット無量義経」が文字化されていたのか、読誦レベルだったかは問いません。

 

上記したように、漢訳成立年代のずれを考えれば、仮に「無量義経」をインド撰述だとしても、法華経と連携して広範な地域で同時に読誦暗唱されていたとは考え辛いと判断するのが合理的です。それを法華経の開経と解釈し、「無量義経なくして法華経なし」と評価するのは無理があります。

 

経典編纂が複数の地域で同時進行的になされていたとしても、「無量義経」=「法華経の開経」という解釈がインドにおいて(法華経編纂時)存在しなかったことを承認するのは、インドにおいて「無量義経」が存在していなかったことを認めているに等しいでしょう。

 

それがどういう矛盾を含んでいるかというと、戸田城聖という人物は法華経とは関係のない経典で悟りを得たということです。今の私には、碌に信仰心がありませんが、創価学会的に言えば、外道の教えで悟達したということです。これも割と昔から指摘されてきたことですがね。


補足
法華経二十八品の成立過程も議論されている状態です。その他経典がどの様な成立過程にあろうと、特に驚く必要はありません。どの道、釈尊直筆は存在しません。天台やそれを参考にした日蓮歴史認識が間違っていたとしても、時代的制約から仕方が無いことです。