狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

本部職員の存在意義

本部職員の存在意義とは何でしょうか。宗教専門家として会員への奉仕が仕事のはずですが、職員がいるお陰でありがたいと思えるようなことが殆どありません。私が創価学会に専従職員が必要だと感じる機会は、墓苑を訪れた時くらいでしょうか。葬儀(儀典部)と墓苑の管理以外に職員が必要なくなれば、学会も立派な葬式仏教といえるでしょう。

 

私は、今の幹部の多くは突っ込んだ教学研鑽というものを経験していないと推測しています。本部職員も含め、大白蓮華レベルの話を読んでいればいい方です。以前、広宣関係者(若い方ですが)に率直に現状の教義を尋ねたことがありましたが、聖教新聞の解説レベルの内容を言い切るだけの反応でした。理論の矛盾等に対して、あるいは信濃町の変節に関して、彼等は反論できません。反論できない内容には沈黙が帰ってきます(余計な反論はしないように教育されているのではと勘繰りました……)。

 

職員関係者に教義会則の変更に関して直接質問したこともありますが、「今は胸にしまっておいて」と言われ、それ以上話題を続けることが出来ませんでした(この方の場合は、敢えて私を黙らせて守ってくれた部分があると推測しています)。私も日蓮遺文、仏教、他宗の教義を熟知しているわけではないですが、信徒の疑問に答えることが出来ない専門職員にいかなる存在意義があるのでしょうか。

 

専門職の宗教研究者を一定数育成する。広く教義研鑽を行いその結果を会員にフィードバックする。自然科学や諸宗派との関係を考察する。会員の教義的な質問に答える等。宗教専門化である職員には、一般会員の信仰を手助けする責務があります。

 

教学部長だった原島崇氏が創価学会を離反したおかげで、教学部そのものが縮小したという話を聞いたことがありますが、今も尾を引く大きな問題です。職員が教学を体系だって学ぶシステムが貧弱です。

 

選挙、会合、青年大会とイベントに追われ、職員が一般会員と地道な活動をする機会が少ないのも問題です。本人に悪気が無くとも、事務的な対応が増えてしまいます。教義的なアドバイスも人情的なケアも提供し辛くなっているのが、今の学会職員ではないでしょうか。

 

創価学会は現状で既に分裂状態に近いですが、その要因の一つは、本部や職員が会員に満足に対応出来ていないことだと思っています。

 

もう一度言いますが、今の創価学会で専従職員が必要となる場面は、墓苑の管理くらいです。時代を切り開く新しい宗教と主張してきた団体の末路が葬式仏教というのは余りに空しいですね。そして、そんな組織に振り回される会員は非常に哀れです。