狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

自殺を否定できない

最初に断っておくが、誰かの自殺を推奨・ほう助するつもりも、私自身が事を起こすつもり無い。私の頭の中に、クルスクのT34や112高地のシャーマンの如く湧いて出てくる希死念慮に対し、理性を持って反論論する中で、どうにも対応できないので、考えをまとめておきたい。それだけだ。

 

自殺を否定できない。やはり理性で自殺を否定するのは困難なのだろう。私の考えはこうだ。

 

1.人間はいずれ皆死ぬ。
2.どの様な理由であれ、生命活動の停止という点において、死は苦しみを伴う。
3.   辛い人生が続けば、死の苦しみと死ぬまでの苦しみが必要になる。
4.自殺をするのであれば、死の苦しみだけで済む。

 

この条件では自殺を否定できない。1は固定だ。2もほぼ固定だろう。1~2ヶ月の闘病生活を得て、最後はチューブだらけになって、寝返りをうつことも困難になって、呼吸を減らしていく。そこに苦しみが無いと言うのは嘘だろう。近年の、終末治療の発展は確かな成果をあげているだろうが、それでも臨終の瞬間は苦しいと思う。大麻由来の医薬品がどこまで解禁されていくかわからないが、少しずつ死に近づいていく、臨終の苦しみをゼロにするのは困難だと思う。

 

問題は3だ。自殺を否定するには、3を否定するしかない。あるいは、「例え苦しい人生が続き救いも何も無いとしても、生き続ける方が上位である」と設定することだ。

 

現実的な話として、「苦痛の回避」という観点から3を否定できるだろうか。全ての人間に、苦しみからの解放を約束できるだろうか。宗教はそれを約束するだろうが、この2000年間ほど結局果たせずに来た。今現在も達せずにいる。短期的な解答でよいならば、麻薬が結果を保障してくれるが、長くは持たない。それどころか、廃人を作る。目先の解放の代償に、死よりも辛い後遺症をプレンゼントしてくれる。これも駄目だ。

 

現実問題として、苦しみを抱えたまま亡くなっていく人をゼロにすることは出来ない。つまり、「死の苦しみと死ぬまでの苦しみ」を消すことが出来ない。解消するには、手段としての自殺を肯定するしかない。

 

生きている楽しみがない。薄給激務。友人も恋人も親しい家族も居ない。そのシチュエーションはいずれ変わるかもしれない。その可能性は否定できない。しかい期待値としてはかなり低い。「諦めるな」と言うのは簡単だが、人口の数%が孤独死する未来が確定している現在において、物心両面においての格差が固定化しつつある現代において、何の責任をもって、どのような材料を持って「諦めるな」と言えるだろうか。

 

せめて机上で良いので、万人を救済できる手立てを確保できているならばよいのだが、そうでない状況で、現実に苦しみを抱えたまま死ぬしかない人間が数十万人、数百万人単位で居る中で、自殺の否定を個人の努力や限りなく低い蓋然性に委ねるというのは、

 

「君は社会に溶け込めないだろうし、世間の感覚に共感できる日は未来永劫訪れない。経済的に成功することも無い。結婚も出来ないだろうし、親しい友にも恵まれないだろう。そんな中、あと30年、働いてもらう。ついでに、親の介護もやってくれ。楽しいことは無い、希望もない、辛いだけだろう。君が生きる喜びを知る日は来ない。けれども、自殺は駄目だ」

 

と言っているように思える。「基本的な人権の尊重=自殺の否定」を(仮に建前だったとしても)掲げている我が国において、マジョリティとしてはそれが最も都合の良い解答なのだろうけれど、低級国民である私としては、

 

「私の苦痛を、私の努力不足や能力不足に起因していると判断するのは自由だ。だが、現実に救われない、報われない人間が何万人といるならば、自殺という選択肢を社会悪かのように咎めることは出来ないだろう」

 

と反論したい。個人に対し、「努力をもって自殺を回避せよ。未来は固定されていない」と指摘することはできるだろう。努力でなくとも、他の手立てでもよい。それは可能だ。だが様々な分野で統計上の数値として改善が望めず、社会集団としての正解を示せないというのならば、「自殺という選択肢」を認める必要があるのではないかと思う。

 

繰り返しになるが、誰かの自殺を推奨・ほう助するつもりは無い。だが、「苦痛の回避」という観点から考えれば、自殺という手段を否定できないのではないかと思う。