狂気従容

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おすすめ軍事書籍ードキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争

プロパガンダ。一番有名なのはナチスのそれだろう。戦争に限らず、都合の良い世論なり世相なりを形成させたいと思う者は多い。自らが望む方向に社会を誘導する。それは困難ではあるが不可能なことではない。実際、ナチスを含めそれに成功した連中は居る。私は情報を食材だと認識している。調理方法や盛り付け次第で味も見た目も変わる。似たような食材から違う料理を作ることも可能だろう。載せる食器(メディア)も重要だ。味噌汁を平皿で出されたら台無しだ。 

 

今回紹介する書籍は、情報工作とも世論操作とも言える分野に焦点をあてた「ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争」である。著者はNHKで番組制作にも係るジャーナリスト、高木徹 

 

この書籍を紹介する前に、まず主題となっているボスニア紛争とその周辺状況について、説明する必要があるだろう。 

 

ボスニア紛争ユーゴスラビア紛争(1991-2001)の一つに数えられる。ユーゴスラビア紛争、ユーゴスラビア連邦が分裂する過程で発生した諸々の紛争は、20世紀最後の悲劇の一つに数えられ、戦後欧州最大の惨劇とも言われる。西と東。2極化された世界、冷戦。冷戦構造によって押さえつけられていた民族意識が、冷戦の終結によって戦争と言う形で解き放たれる。それはバルカン半島に限った話では無いが、凄惨極まりない紛争の始まりは民族対立だった。ユーゴスラビアの場合、チトーという偉大な指導者の存在も大きかった(1980年没)。1人に支えられたシステムは1人の死をもって終焉を迎えるのである。 

 

ユーゴスラビア連邦には、クロアチア人、セルビア人、アルバニア人など複数の民族が存在した。ユーゴスラビア連邦を表現するに「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という表現があるくらいで、日本人にはあまりピンとこない世界であるが、単純に運営することの難しい多民族国家だったのである。 

 

ユーゴスラビア連邦は最終的に、スロベニア共和国クロアチア共和国北マケドニア共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、セルビア共和国モンテネグロ共和国へと分裂することとなる(2021年現在)。この分裂過程で発生した諸々の紛争をひっくるめて、ユーゴスラビア紛争と言う。特に凄惨を極めたのが、クロアチア共和国の独立に端を発するクロアチア紛争(民族的にはクロアチア人VSセルビア人)とボスニア・ヘルツェゴビナの独立に起因するボスニア紛争(民族的にはクロアチア人とセルビア人とボシュニャク人の三竦み)である。 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には、クロアチア人(カトリック)、セルビア人(正教会)、ボシュニャク人(ボスニアで生活するイスラム教徒)が共存していたが、主に独立を望んだのはクロアチア人とボシュニャク人で、セルビア人は独立に反対の立場をとった。クロアチア人とボシュニャク人も仲が良かったわけではなく、紛争中に交戦状態となることがしばしばあった。クロアチア人はクロアチアを背後に抱えていたが、クロアチア国内にも少なくないセルビア人が生活していた(そしてクロアチアセルビアと紛争状態だった=クロアチア紛争)。ボスニア紛争は国家の独立に起因して発生したが、その国家は単一民族国家とは程遠く、国家VS国家の形をとりつつも、その内側は複雑な民族分布(民族対立)に満たされていた。 

 

第二次世界大戦の様な比較的色分けが簡単な戦争と言うのは評価も簡単である。歴史は勝者が作るという格言が示すように、その評価が資料を基に精査した時適正かどうかという問題はあるものの、陣営とそれが示すものが明白な戦争は善悪二元論で評価することが容易である。逆に、昨今のシリア内戦の様な各勢力が入り乱れた戦争においては、単純明快な評価を下すことは困難となる。ボスニア紛争は間違いなく後者に該当する。 

 

さてその様なボスニア戦争において、情報工作とも世論操作ともいえる活動を担った米国PR会社(ルーダー・フィン社)が存在した。PR(Public Relations)、日本でもなじみ深い言葉であるが日本語に訳すのは難しい。公的価値の創造とでも訳せるのだろうか。本来は、宣伝とか広告を意味するだけの言葉では無いらしい(単語を見ればそれは分かるが)。 

 

ルーダー・フィン社の活動とは何だったのか。それはボスニア政府と契約し彼等の正義を、セルビアの悪事を、分かりやすい色分けを構築することだった。クライアントは国家である。主要エージェントの名はジム・ハーフ。なんとこの男、クロアチア紛争でクロアチア政府と契約し、同様のお仕事をしていた。クロアチアの敵はセルビアボスニアの敵もセルビアセルビアを悪党に仕上げる。それが彼の仕事だった。 

 

本書は、ルーダー・フィン社およびボスニア紛争当時の関係者へのインタビューを中心に、当時如何にして「セルビアは悪党である」という世論が構築されていったかを、丹念に綴っている。PR会社の手口。新聞社を始めとしたメディアとのやり取り。政治家とのコンタクト。言葉選びから記者会見でのテクニック。敵のやり込め方。PRのノウハウ。彼等が行った事の是非は別にして、その鮮やかな手口は芸術的と言えるだろう。

 

敗れたセルビア側のPR活動も記載されていて、それはそれで興味深い。セルビア側が敗れた決定的要因の一つは、「強制収容所」の存在をすっぱ抜かれたからだ。いや、それが本当に「強制収容所」だったのかは問題ではない。一枚の疑わしい「収容所」の写真がナチスのそれをイメージさせる「強制収容所」と認識されればそれで十分だったのである。セルビア側のPRの敗北には内部の政治的なトラブルや米国コネクションの喪失など他にも要因があったのだけれども、「強制収容所」は悪党をイメージさせるに完璧な衣装となってしまった。 

 

強制収容所」とくればセルビアを「ナチスのようだ」と非難したくなるところだが、ルーダー・フィン社はボスニア紛争時、セルビアを非難するに「ホロコースト」という言葉を絶対に使用しないよう徹底した。ルーダー・フィン社には、クロアチア紛争時の仕事において「ホロコースト」を用いたところユダヤ人社会に不快感を示されてしまったという経験があったからだ。ユダヤ人にとって「ホロコースト」という単語は気軽に用いられるべき言葉ではないということだろう。著者の言葉を借りれば「ユダヤ人社会にホロコーストの犠牲者を冒涜していると受け取られる可能性があった」。本邦においても気を付けるべきだろう。そして「ホロコースト」の代わりに見出された単語が、ボスニア紛争を代表する言葉ともいえる「民族浄化」だ。 

 

民族浄化」という言葉の成り立ちも興味深いが(そこは本書を読んで確認して欲しい)、それと同じくらい興味深いのは著者が「民族浄化」という言葉を説明するに「Buzzword」という表現を用いていることだ。本書は2002年に単行本が出版されている(私が持っているのは文庫版)。2002年当時、Buzzwordという言葉が米国ではある程度一般的だったことに驚いた。SNSなんて影も形もない時代である。 

 

SNSの交流によってPRも新しい段階に入っていることだろう。近年で言えば、アラブの春からウクライナ紛争、ナゴルノ・カラバフ戦争までSNSは間違いなくPRの場として使われていた。PRと思わしき投稿を直接目にする機会もそれなりにあった。真偽不明の動画が何万回も再生され転載されていく。TRTだとかスプートニクの様な、若干不自然な日本語で書かれたソッチ系のメディアが検索結果に表示される。PRの主戦場の一つにインターネット、取り分けSNSがあるのは間違いない。この点はボスニア紛争時と異なった状況だろう。当時に比べ、特定方向への世論操作は困難になっているかもしれない。一方で、真相や悪事を「戦争の霧」の中に隠すのは容易になったかもしれない。 

 

人道に対する罪に問われ、戦争犯罪人として審議中だったミロシェヴィッチ大統領(セルビア共和国大統領)は獄死した。ユーゴスラビアの名を冠する国家はどこにもなくなった。ボスニア紛争終結から25年以上が経過した。本書で示されているPR技法も、一部では古臭いものになっているかもしれない。 

 

しかしながら学ぶべきは歴史にある。時間が経ったからこそ見えるものもある。国家が大きな事業を起こす際、それに対する社会の評価は「適正」なのか考えるきっかけを作ってくれる本書には一読以上の価値がある。情報過多が叫ばれて久しい今だからこそ、読む価値がある。是非手に取って読んで頂ければと思う次第である。 

 

 

余談:クロアチアについて

ユーゴスラビア紛争に触れるからにはどうしても言いたいことがある。クロアチアという国家はもっと非難されてしかるべきである。ユーゴスラビア紛争が激化してしまった原因の一つは、かつてクロアチアに存在したウスタシャという民族主義団体にある。ウスタシャは第二次世界大戦中、ナチスに協力しホロコーストに手を貸した。同時に、クロアチア国内のセルビア人を無差別に虐殺した。ヤセノヴァッツ収容所、セルビア人カッター。気軽に調べるのは全くお勧めしない。私の中でクロアチアという国は、アドリア海の美しい場所でも、ネクタイ発祥の地でも、サッカーの強豪でもなく、ウスタシャの国として認識されている。