先週は終戦記念日だった。まぁ実際は敗戦の日だろう。それは置いておいて、今年は戦争特集が少なかったように思う。コロナにオリンピックと、話題を取られた感がある。8月ジャーナリズムも76年。当事者世代から話を聞ける機会も減少している。
9.11から20年。21世紀の戦争が始まってから20年の節目である。アフガニスタン情勢がカオスを極める中、対テロ戦争をどう評価するか、あらためて議論が必要とされるところである。日本を含めこの戦争の当事者世代はバリバリ生きているので、生きた議論が出来ると思う。イラク戦争も含め、中東周辺の武力介入に関して向き合う必要があるだろう。
1. 話題性と実害は比例しない
そんな中ではあるが、今回記事にしたいのはタイトルにある通り、インセルは次のテロの潮流なのか?という話だ。いや、少し大げさなのは分かっている。話題性と実害(または実利)は比例するとは限らない。人の死を数字だけで評価するのは危険な行為だが、第二次世界大戦、9.11から対テロ戦争、インセル関連の事件と犠牲者の数を比べれば、その差は明らかである。
米国は、20年間に渡るアフガニスタンでの戦闘で2500名近い戦死者を出したが、硫黄島の戦いにおける米兵の死者数は1ヶ月ちょっとで6800人。戦争の規模としてはその程度だ。現地住民の被害は甚大だと思うが、数千万人が亡くなった第二次世界大戦に比べればかなり少ない。数が少ないからと犠牲を矮小化するつもりはないけれども、規模としては比較にならない。それは事実だ。
オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件や、ラスベガス銃乱射事件、ウトヤ島銃乱射事件に比べれば、インセルが引き起こした事件の規模はかなり小さいといえるだろう(繰り返しになるが数が少ないからと犠牲を矮小化するつもりはない)。フェミサイドなる言葉を初めて知ったが、エリオット・ロジャーが10人いても死者の合計は60人。6000人ならともかく、60人では世の中をひっくり返す数字にはならないだろう。前述したように、話題性と実害が比例するとは限らないので、今後同様の事件が発生するたびにスポットライトが当たれば、もっと大きく社会を動かしていく可能性は残している。それは事実だ。
2. 差別は殺人に対するストレスを減少させる
以前少し記事にしたが、人間は元来、殺人に強いストレスを感じるようにできている。殺人は人間にとって非常にハードルの高い行為なのだ。そのハードルを下げる一番の方法は相手を人間と思わないこと。人間を殺すことに抵抗があるならば、相手を人間だと思わなければよい。
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人種差別の類がいかに戦争を容易にしてしまうか、そこには明確な根拠があった。人種差別に限らず、相手の人間性を否定する行為は殺人のハードルを下げる。 人間性・人権の否定(差別)は殺人の免罪符、収容所への直行便、戦争への片道切符だ。21世紀に問題となるのは、その差別の形態だろうと思う。
3. テロリストに人権は無い(そして区分けも無い)
ここでテロリストについて少し考えてみたい。テロリストの定義とかを展開しても良いのだが、今回話したいのはテロリストの役割、21世紀にテロリストはどの様な意味をもたらしているかという点だ。
前述したように、差別というのは殺人のハードルを下げる。かつて20世紀までの戦争においては、人種、宗教、国籍が差別の中心テーマとして成り立ち、敵対国の非人化という観点から戦争遂行を支えていた。第二次世界大戦はその象徴だろう。
しかしながら、基本的人権の尊重というものが不変思想として主要国でコンセンサスを得るようになるにつれ、人種、宗教、国籍を言い訳にした殺人の肯定は困難になってしまった。現場や末端兵士の心根は別にして、国家のお題目として敵対集団を差別することは出来なくなってしまった。
そんな中、殺しても咎められない存在がいる。テロリストだ。テロリスト(自由への脅威)だけは今でも殺しの免罪符が適用される。人種、宗教、国籍を敵対理由に挙げることが困難な現代において、テロリストという言葉は実に便利だ。テロリストには、人種、宗教、国籍の区分けがない。性別も年齢も関係ない。この20年間の対テロ戦争は、地域性としては中東、宗教としてはイスラム過激派と、テロリスト=アラブ系というイメージを強化してしまったが、本来、テロリストには宗教も国籍も関係が無い。日本赤軍もFARCもアルカイダもテロ組織で一括りだ。
テロリストという言葉は、人種、宗教、国籍による差別をタブーとしたことで、殺人(暴力)の合理化が困難になってしまった21世紀の国家にとって、暴力を行使するに必要な概念の一つであるということだ。オンリーワンの根拠ではないだろうが、テロリスト(自由への脅威)の排除は-具体的な排除方法は別にして-高い支持を得続けるだろう。
4. 弱者=差別なのか(かつての差別には分かりやすい集団性があった)
弱者男性や非モテが差別に当たるかどうかは良く分からない。経済性、異性関係、同性との交友、家族関係。それ等における劣勢(弱者)が、差別に当たるかどうか。友人がいないのは自己責任なのか?配偶者がいないのは……そこに明確な回答はないかもしれない。しかし明らかなのは、経済性、異性関係、同性との交友、家族関係等のフィールドは、人種、宗教、国籍に比べはるかに個人的、Indivisualな要素に満ちているということだ。
20世紀に比べれば、人種、宗教、国籍による差別は多少なりとも改善されたと言っていいだろう(性別による差別も)。全てが解消されたわけでも、現状で満足ということもない。それでも、課題解決に成果があったのは確実だ。
例えば考えてほしいのだが、労働と子育の両立に奮闘している日本人がいたとして、同じ様な境遇の外国人と、独身の日本人、彼なり彼女はどちらによりシンパシーを感じるか。その時、人種、宗教、国籍が大きな障壁になるだろうか。
繰り返しになるが、差別は殺人のストレスを減少させる。相手を同じ人間と捉えることが、暴力を抑止する。では、友人も恋人も家族も、誰一人として愛しい人物がいないという条件で、他人の人権に興味を持てるだろうか。あるいは、友人も恋人も家族も、誰一人として愛しい人物がいない誰かを、同じ人間として扱えるだろうか。問われるのはそこだ。
5. インセルは次のテロの潮流となるか(思想なきテロリズム)
話をインセルに戻す。インセル(とフェミサイド)は次のテロの潮流になるだろうか。予測するのは難しいが、インセルはこれまでのテロリズム(テロ組織)と違い、バックボーンになるほどの思想、強大な組織をオーガナイズするようなリーダーが今のところ不在だ。エリオット・ロジャーが一応の「教祖」とも言える存在らしいが、パブリックエネミーのビンラディンなんかと比べれば影響力の差は歴然だ。これまで世界に恐怖をばらまいたテロリズムには、思想やリーダーにある種の力強さがあった。今のインセルにそれは無い。ヘイトクライムの実行者達も、思想としてのバックボーンをレイシズム等に求めているだけで(暴力への免罪符が欲しい)、本来の動機(要因)は非常に個人的な部分での劣勢に起因するかもしれない。
もしこれから、インセルを束ねて先導するような人物なり体系だった思想なりが出てくれば、21世紀の中盤戦に名を連ねる「個人的なテロリズム」を確立していくかもしれない。フェミサイドに限らず、無差別殺人を合理化できるような思想(インセルにとっての暴力への免罪符)が出現すれば、今以上に勢いはつくだろう。あるいは9.11のような、数千人単位の悲劇を誰かが引き起こせば、テロの時代の大きな呼び水になってしまうかもしれない。
物心両面における格差の拡大とその固定化。それはもう手遅れ感があるくらいに悪化していると私は考えている。インセルに限らず(つまり男に限らず)、個人的な、Indivisualな要素に満ちたテロリズムは、これからも発生し続けるだろう。 インセル自体、格差の拡大とその固定化の中で生まれた副産物に過ぎないのかもしれない。
テロリストの多くは、社会的弱者から生まれる。なるほど確かに、豊かな人生を歩んでいる人物に殺人を実行するメリットはないだろう。弱者がテロリストになるというよりかは、社会的弱者にとって暴力(テロ)だけが平等性を実現(格差を是正)できる手段に見えるのかもしれない。あるいは自身を勝者に導く-ほんの一瞬で終わるにしろ-唯一の答えと思うのかもしれない。暴力はある意味平等で、全ての人間を弱者にカテゴライズしてしまう。3000Jの初活力を持つライフル弾に人間の頭脳は太刀打ちできない。物理的な話である。
良くて孤独死、悪くて自殺。もっと悪ければテロリスト。救済の手立てが無く、破滅だけが約束されているとするならば、刹那のカタルシスを求めて暴力を選択する者は出続けるだろう。
ISISの興亡、ホームグロウン型テロ、ヘイトクライムの増加。振り返って考察しなければならないことは多いだろう。ISISが猛威を振るっていた頃、諸外国からISISへ合流した人達がいた。SNSの影響も大きい。21世紀の前半戦、この20年間の対テロ戦争を総括する暇もなく、次の戦争に突入していくのか。