狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

シラフが辛い日曜日

シラフの週末は辛い。暇を毒物に例える人がいるが、理解できる。考える時間が無いほど忙しい方が楽なのかもしれない。考え始めると正気ではいられない、それが私だ。 

 

30も半ばを過ぎようとしているが、まことに残念な日々を送っている。夢も希望もない。楽しいと思えること、幸せを感じることが無い。酒を飲み、頭を空っぽにすること以外に快楽が無い。だからシラフが辛い。我ながらよく投了しないものだと思う。実行力を伴った形で闇落ちしないでいるのは、人としての最低限の尊厳を維持しようと務めているからか、あるいは少ないながらに友人がいるからだろうか。はっきりと言えるのは1点、私を行動に走らせるに足る理を見つけることがまだ出来ていないということだ。確信を持つに至れない。 

 

夢破れクソみたいな地元に戻って生きるために働いている。そこで分かったことは、私は普通になれないし、普通を楽しめないということだった。正直、食い扶持には困っていないし、1人者が故の余裕もある(出費が少ない)。将来への備えという点においては不安ではあるが、それは言うならばそもそも私には将来があるか?未来が必要か?という話になる。 

 

私には、他人の人権を守る責務は少ないように思われる。それを破壊する権利はないにせよ、明日この国が滅んでも特に困らないくらいには他者との関係性が希薄だ。社会問題として、様々な分野に興味を持ってはいるが、どうしてもこの社会を改善しなければならない理由は無い。失って惜しいと思う者がほぼほぼゼロだからだ。これが本当にゼロになれば、私は最後の一線を超えるのかもしれない。 

 

仮に、世の誰からも愛されず、親しい家族も恋人も友人も全く居ない人物がいたとしよう。見た目にも、能力的にも。物心両面において劣勢で、今後それが改善される蓋然性も低いとしよう。その人物に、他者の人権を尊重する義務は発生するだろうか。あるいは、そのメリットがあるだろうか。 

 

人権というのは誰にでも無条件で存在するし、基本的人権の尊重というのが現在社会の基盤になっている。それは事実だ。しかしながら、それを享受出来ていない層がいるのも事実かと思う。私も、そのレイヤーに限りなく近い。 

 

もし、ある一定数の人間は報われないことが、居場所を作れないことが、データの上から科学的に立証されたとしたら、どうだろう。21世紀に優生学2.0と呼べるようなものが確立されてしまうだろうか。誰もが陽の当たる道を歩けるわけではないことが、王道を征けるわけではないことが証明されたら。 

 

団結や共生に価値を置き、分断や分裂に警鐘を鳴らし、あるいはそれを忌み嫌うのはそこに何らかのメリットがあるからなのだろう。人によっては、ビジネスの上でも必要かもしれない。全方位に笑顔を振りまかないといけない職業の人、人を集めることが飯のタネになっている人にとっては、皆で歩む道が太いほど都合がよいだろう。 

 

他人の人権を嗜好品として楽しめない者に、他者の人権を尊重するメリットはあるだろうか。社会への遠慮が必要だろうか。自分が泣いている時に笑っていた連中を気にかける必要があるだろうか。子を残すことも無いのに、若い世代を守る意味があるだろうか。生涯独身男性の半分は66歳で亡くなるというのに、日本の未来を憂うことがあるだろうか。 

 

劣勢を認めながらも、それぞれのスペースで黙々と労働に励んでくれる。他者を羨むことも、妬むことも無く。不平不満を述べることもない。支配する側としてこんなにも都合の良いことはないだろう。沈黙、労働、服従。それだが許された生。私個人の未来はもちろん変動しうるが、この国が数百万人規模で報われない国民を抱えている現状が、将来において解消されるとは思わない。日本に限らないか。 

 

狂気従容。良くて孤独死、悪くて自殺。もっと悪けりゃテロリスト。血に溺れないことが最低限度の目標となるか。人生で一度くらい、まともに人に愛されてみたかったというのは割と本心だと思うが、残念ながらその機会は来ないだろう。少なくとも、まともな両親を持つ機会は、永遠に無いのだ。 

 

理性や自制心によって私は生き延びている。だから理をもって実行に足ると得心が行けば、私はためらわないだろう。