狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

正木伸城氏のコラムを読んだ感想

 彼について言及すべきか悩む部分がある。悩む理由は大きく3点ある。第一に、彼への発言は荒れるかもしれないからだ。誰がとか何処がとか特に指定しない。本人の希望とか意思は別にして、彼はセンシティブな立場にあると思う。二点目は、彼は実名で行動しているが、私は匿名のセーラムだからだ。フェアではない。最後に、生まれ育ちの差を意識して私が冷静でいられない可能性があるからだ。彼がロイヤルファミリーなら私は落胤だ。

 

 しかしながら、彼のコラムの最後の文章が「みなさんは、どう思うだろうか。」だったので、みなさんの中には私も入っているだろうという仮定のもと、ここは敢えて触れてみる。対象は以下2つの記事にする。彼は他にも記事を書いているけれど、テーマ的に扱い易そうなので選ばせてもらった。

 

創価学会員は選挙についてどう捉え、どんな活動をしているのか? (正木 伸城) | 現代新書 | 講談社(1/2)

 

公明党支援にまつわる、学会の“公式”と“現場”のホンネ・建て前(正木 伸城) | 現代新書 | 講談社(2/2)

 

 私はライターでも何でもない。下手の横好きで駄文を連ねている。プロを批評するのは尊大な輩と思われても仕方がないだろう。とはいえ、誹謗中傷は論外としても言論の自由は認められている。野球会場にはビール片手にバックネット裏で話題のルーキーに声援を送るっているのか、ヤジを飛ばしているのかよく分からないおじさんがいるものだ。ヤジは良くない。野球解説の真似は許されるだろう。草野球の体験談からプロ野球を語る人。私はそういうおじさんだ。あるいは、「俺は地区大会であいつからヒットを打ったことがある」と言いたいのかもしれない。

 

 多少なりともフェアになるよう、先に私の経歴を少しだけ書かせてもらう。私は創価大学34期生だ(彼より年下だ)。八王子に10年数ヶ月ほど身を置いた。夢を求めて旅経ったが上手く踊れず、無職生活を2年近く経験した後に再就職した。私の祖父は公明党の市会議員だった。両親は地域の幹部として今も活動している。正木伸城氏との面識はない。

 

1. コラムの構成について

 この手の記事を批評する時、あれを書いてないとかこれに言及していないとか、記載のアリ・ナシだけを突っ込むのは野暮だと思う。限られた文字数と決められたレギュレーションのもと、対象読者層を定めてなるべく響くよう内容を固めていく必要がある。人生最後の記事ならともかく、これからも活動を続けていくならば、ブランディングなりマーケティングなりの計算があってしかるべきだ。どのタイミングで何を話すか。どう積み上げていくか。戦略があって当然ではないだろうか。コラムの中で紹介されている彼の父親の言葉、「宗教的信念ならベストを選べるが、政治はベターしか選べない」の政治の部分を仕事に変えても意味は通ると思う。熱意は常に100%を目指すにしてもだ。

 

 記事の中に「ぼくは、公明党創価学会については、世間と学会員の間でフェアな議論がなされればと願っている。」とあるように、おそらくは学会員と非学会員それぞれが読者になっても違和感のないよう、注意しながら表現やエピソードを選択したのだろう。対象を広くすれば潜在的な読者層は広くなるが、総花的で薄い内容になるリスクもある。彼ならそんなことは百も承知だと思う。自身の心情ないし信条を、もっと苛烈に表現しようと思えば出来るかもしれない。でもそれは長い勝負とみればベターな選択ではないだろう。私としては物足りなさも感じるが、私は本流から常に外れているのでヨシとする。

 

2. 前編について

 彼が創価大学に在籍していたのは、2000年代の前半から中盤くらいまでと思われる。在籍期間が私とも少し被っているかもしれない。彼が紹介しているエピソードを読むと八王子は丹木の丘で過ごした日々が昨日のことのように蘇ってくる。前回記事で八王子学生部の思い出を紹介したけれど、彼が体験した学友とのやり、記事にはしなかったが私も経験した。また同様の光景を目撃することもそれなりにあった。公明党創価学会の関係、池田大作公明党の関係。それが乖離しているのでは?という点で衝突することがある。これはその通りだ。

「公明に反対するお前は信心がおかしい」 、「お前の退転の命を、俺が斬ってやる」 

懐かしいセリフを紹介してくれるものだ。

 

 ちょっと補足したい。あくまで私の見た範囲であるが、学生部という組織は所属場所によって雰囲気が違う(創価学会そのものにも言える)。学生部の基本単位は部である。私の部は50人くらいが在籍していた(部によって在籍人数は異なる)。部が複数集まって区になる。部にも区にもそれぞれ指導的な立場である幹部がいる。その幹部によって、部内、区内の空気はかなり変わる。また所属学生の属性によっても変わってくる。寮生が多いかどうかとか。クラブ活動をやっている方がどの程度いるかとか。部内に他大生がいるかどうかも八王子においては大きな要素だろう。全体の傾向として、時代を遡るほどハードパワー路線が強いのは確かだろうと思う。2000年代前半ならば原理主義的(これも難しい話で文献全般に原理主義的なのか最近の指導だけを熱心に読み漁るのか幹部指導に忠実なのかで行動様式が違う)な人も多かっただろうし、パワハラまがいな連中もそれなりに残っていたことだろう。私自身の体験と伝聞によってそう考えている。

 

 テーマ的にわかりやすいエピソードを紹介したのか、時勢や彼の所属組織が原因で記事にあるようなやり取りに終始したのかは分からない。前回書いたように、私の部はかなり緩かった。コラム内で紹介されているような指導を受けることもあったし、似たような会話を交わしたこともある。しかしながら、全体的におおらかだった。そして適当だった。公明党を支持しなくとも居場所があったし、何より”公式の”教義教学への執着がそこまで強くなかった。それが良かったのかどうかはわからない。彼のコラム前編タイトルは「創価学会員は選挙についてどう捉え、どんな活動をしているのか? 」となっているが、コラム内で紹介されているのは一側面(典型例の方が適切な表現かもしれない)だと思っていいかもしれない。「何故選挙支援をするのか?その根拠は?」と問えば、確かにそれっぽい回答が帰ってきた。では彼等がそれをどの程度日頃から意識していたのか?というと、必ずしも教条的なものではなかった。純粋で無かったとも言える。行動を合理化するための根拠として、会合資料や幹部の言葉を借りてきた程度の人も多かった。まぁ煩い人は居たけれど。

 

 政治論争に関して、私の体験した光景は彼とかなり違う。と言うのも、私は右寄りだったからだ。池田大作創価学会の方向性と公明党の相違で悩むのではなく、そもそも池田大作創価学会の方向性(主に安全保障政策)に首をかしげることがあったからだ。私は、罰が怖いのと、功徳が欲しいのと、生まれ育ちからくる諦めと、宗教団体は理想論でも(その平和活動が未熟な物であっても)構わない、平和運動と現実的な安全保障が特にリンクしていなくとも良いかなくらいの適当さ、何重もの基準によって行動していたので話が合わなくとも派手に衝突することは無かった。私が当時、一番激しく政治の話をしたのは他大生の友人だった。選挙支援を頼んだ小学校から高校まで一緒だった友人は共産党支持者だった。私の趣味も方向性も知っていた。様々な話をした後、

 

「お前は創価学会とも公明党ともそもそも意見が違うだろう。創価学会公明党の矛盾も分かっているだろうに、はっきり言わない。なぜ支援するんだ」

という彼の指摘に対し、

「祖父が公明党の議員だったからだ」

と情をもって訴えた。

「お前が何を言い淀むのかは分かった。投票は考えておく」

 

とあいつは答えてくれた。朝5時に電話をしてきたこと以外は嬉しかった。この回答が選挙的に適切かと言えば疑わしい。疑わしいのだけど、選挙なんて利害調整に過ぎないと考えていたし(今も)、どういう基準で(つまりどのような利害関係をもって)投票するのも自由なのだから政策論争の上で支援を依頼する必要もないと思っていた。今は支援自体をしていない。我が国は民主主義国家であるが故、選挙の自由はもちろん、どういう理由で投票しようとも罰せられない。名前が自分と同じだからで投票しても良い。「世間には都合悪いかもしれないが俺には都合いいから」で投票できる。「お前に都合が悪くても大多数には益があるのだから俺の指示に従え」とは言えないのだ。但し、主張が憲法違反でない場合に限定される。だからこんなアンビバレンツで適当な私でも、憲法改正には慎重だったりする。彼は具体的なエピソードとしてイラク戦争の事例を紹介している。イラク戦争に関しては、創価大学内でもトラブルがあったと聞いている。イラク戦争における公明党の動向に反対する人物ならば、憲法改正においても衝突があったかもしれない。いずれ言及してくれるかもしれない。私は期待している。

 

 話を彼のコラムに戻す。本人が意識しているのかどうかは不明であるが、彼と学友の衝突は、お互いが池田大作創価学会、いずれかまたは両方を敬愛しているという前提条件により引き起こされる。彼は記事中、理論武装の準備が出来ていない相手を論破してしまったと書いてある。それはそう。前記条件、創価学会池田大作のいずれかまたは両方を敬愛しているという属性を持つ者同士が、公明党の政策に関して討論すれば、学会や池田氏により忠実な方にアドバンテージがある。

 

 古い指導を別にすれば、池田氏創価学会が具体的な政策への賛否を示すことはあまりない。SGI提言などで仄めかすことはある。経文やスピーチにより接近する人物の方が強いだろう。池田氏創価学会の、文字化されたオフィシャルな主張を軸に議論を展開する方が有利だ。宗教団体の方がよりフリーハンドで話をできる。こと安全保障に関して言えば、自民との連携は随分前から既定路線だったように思う。日米安保の段階的解消を取りやめた時点で、提言できる政策範囲はおのずと決まる。余談だな。

 

 彼が初めて体験した選挙活動について、出自の差を考えさせられた。私は、政治に関心がないとか勤行が分からないという人物を見るのは衝撃だったが、選挙戦そのものには衝撃を受けなかった。実家が拠点だったからだ。私の母は、私の名簿を使って私の友人の両親に投票依頼をしていた。そういうものだと思っていた。断っておくと、それがロイヤルファミリーと落胤の違いだと主張したいわけではない。彼には彼なりの苦労があっただろうし、彼の立場に生まれたいかと問われれば絶対に嫌だ。故意犯的に働くならば悪くないポジションかもしれないが、私は悪党になってもクソ野郎にはなりたくないと思っている。恐らく彼はそのどちらも目指していないだろう。

 

 私の家族は、祖父が選挙に出馬する時に資金が足りなくて土地を売ったらしい。県会議員の息子だった友人は、幼稚園の名簿を使って選挙活動をしていた。そういうのが当たり前の人生もあるということだ。今の彼なら、似たような話も聞いているだろう。彼は面食らい、非会員ならばドン引き、学会員でも滅入るような光景を当たり前にしてきた奴もいる。彼が紹介したエピソードは世間的には十分強烈だが、刺激が足りないと感じる読者もいる。私は常に本流から(以下省略)

 

3. 後編について

 公明党の振る舞いに納得がいかなくなり、その過程である副会長に相談したというエピソードが紹介されている。この副会長がどういう立場の人だったのかは分からないが、幹部になればなるほど自分の意見は言わなくなる。副会長の内心は不明であるが、期待するような回答はまず帰ってこないだろう。相談相手が創価大学の教員とかだったらまた違った反応があったかもしれない(教員兼副会長の人物は当時はいないはず……)。「政策に納得ができない時、それでも公明党を支援すべきなのでしょうか」 と記事に書いてあるが、彼としてはあくまで、政策論争をしつつも信仰的な立場からの見解が欲しかったのかもしれない。以下、彼の記事を長めに引用する。

 

「確かに、宗教的にはそれも大事な視点ですが、純粋に政策で選ぶならまだしも、『池田先生のため』『同志である学会員が候補者だから』という理由で公明候補者を選ぶという政治的な決定の仕方を取るのは、どうなのでしょうか?」と質問した。

 

上記文章は学会員による公明党支援の難しさを端的に表現していると思う。また、何を基準に投票するかという選挙そのものの難しさも示唆している。例えば子育て支援。男性の生涯独身者は50%の確率で66歳までに死ぬ。他人の子供がどうなるか、人生にあまり寄しない可能性がある。負担だけが増えるかもしれない。それでも賛成すべきだろうか?シングルマザーと不妊治療、どちらに補助金を渡すか。それだって子供を選ぶことになる。予算が余るほどあれば何にでも支援するだろう。だがリソースが限られているとしたら難しい話になる。フェアな条件で議論をしたところで、納得もしないだろうしどう頑張っても(私共公で頑張っても)報われない層もいるかもしれない。それはさておき、

「お前は二乗根性にやられている!」

これまた懐かしいセリフ。私が恩師に言われたのは、

「二乗にはなっても似非二乗にはなるな」

だった。

 

 彼が記事の中で紹介している池田氏の選挙支援に関する発言、私は知らなかった。当時も、今も知らなかった。古い指導は今よりダイレクトだろうくらいの認識だった。公明党支援と信仰をセットにしてしまう会員が多いのも無理ないのかもしれない。最近の創価学会オフィシャルの立場、池田氏の発言に関しては記事で紹介されているとおり。建前的には自由である。実態は別であるのだが、彼もそこを是正したいと考えているのだろう。

 

 池田氏公明党の関係については、米国公文書を中心に本ブログでも紹介している。米国公文書(主に外交公電)はウィキリークスで流出したものも含め、まだ全貌が明らかにできるだけの文章をオンラインで確認することは出来ない。公文書館を訪れて調べればもっと発見があるのかもしれないが、メリーランドは遠すぎる。2000年代以降の池田氏が本心で何を考えていたのか、それを推察できるだけの資料がない。強いて言えば、ウィキリークスで流出した公電の中に、学会(原田会長)と米国大使館とのやり取りが記録されているので、それらを池田氏が知っていたかどうか。それが明らかになることはないかも知れないし、明らかになる頃には創価学会も消えているかもしれない。今言えるのはそこまでだ。

 

 宗教団体による政治活動が禁止されていないことは、彼が記事の中で紹介しているとおりなので、それ以上付け加えることはない。しかしながら創価学会の場合、公明党の副会長(八尋氏)が米国大使館に出向いて政治活動を行っていたことが記録されている。これは政教一致には当たらないのかもしれないが、宗閥政治とは評せるかもしれない。昨今の旧統一教会関係の報道を見ながらの感想である。まぁ、大企業やその連合体ならいいのか?日本医師会や学術会議はどうか?と言えばキリがないかもしれない。ユダヤ教超正統派とかいう本物を知った後だと、日本における宗教的な影響力としては創価学会なんて大したこと無い。という感想もあったりする。この国において、宗教団体が取り分け警戒される理由を考える必要があるのだろう。

 

 彼の父親は創価学会のナンバー2だった。発言の内容はともかく、キャラクターとしては嫌いではなかった。そういう見方をされるのを、本人や親族は避けてほしいと思うかもしれないが。忌憚のない議論を親子で交わせるというのは羨ましい。私の父親は公明党への支援を続けているが、議論ができる相手ではない。最近はYouTubeばかり見て陰謀論に嵌っている。ケネディの子孫が現れるとか、トランプは嵌められただの言う人物になってしまった。議論の出来ない相手もいる。

 

4. 最後に

 何か目的をもって筆を持つならば、なるべく理論的に、客観的に論証できる話を軸に、自身の心情や信条は控えめに、言葉やエピソードを選別して、狙った文章を構築していくだろう。必要なら時期を選んで暴露話もする。私ならきっとそうする。彼は暴露話はしないだろうと思う(私はそれでいいと思う)。一時的に注目を浴びるかもしれないけれど、議論は深まらないからだ。

 

 最初の方で書いたように、私は正木伸城氏との面識がない。同じ会合に参加していた可能性はあるが、話した記憶はない。なので、私の彼に対する感想は彼の文章からの推測でしかない。推測をもとに評されることを彼は不快に思うかもしれない。誹謗中傷の類は記載していないつもりだ。私は彼と話したことはないけれど、彼の父親の指導を聞いたことはある。先に書いたように、内容の是非はともかく、話し方やキャラクターは嫌いではなかった。彼の父親、正木元理事長のあるエピソードを友人から伺ったことがある。エピソードの切り抜き、それも10年以上前の伝聞であることを理解した上で読んで欲しい。ある時、正木元理事長は若手から創価学会の問題点を指摘されたそうだ。その時彼は、

「思いつくだけ言ってみろ」

と話したらしい。若手が幾つか述べた後に、

「私なら500は指摘できる。それでもやるんだよ」

と答えたらしい。その回答の良し悪しは別にして、伸城氏の文章から元理事長の人となりを何となく再確認した次第である。またそのスピリットは伸城氏にも受け継がれているように思う。彼の対象は創価学会関連に限定されまい。

「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」

私は忘れて久しいのか、あるいは最初から特に何もなかったのか。変革を意識して行動する人は大変だろうなと思う。