狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

問われる創価学会の存在意義

 創価学会という組織には大きく3つの機能がある。信仰団体、政治勢力、互助会。同じ信仰を持つ者の集団であり、公明党支援を通しての政治圧力団体であり、社会のセーフティネットとして有機的な個の繋がりでもある。本人達がどう思っているかは別にして、創価学会の存在意義あるいは存在価値は、信仰、政治、共助の3点に集約されるだろう。

 

 日本人はこれまで信仰者の集団を注視してこなかった(話題になるのは何か事件が起きた後だけ)。文化庁の宗教統計調査で日本における宗教法人が抱える信者数の総計が1億8千万人ーつまり総人口以上ーとなるのは、団体の自己申告という部分もあろうが、日本人の信仰組織への帰属意識の低さ、信仰団体への関心の低さを表しているだろう。

 

信仰団体としての創価学会にスポットライトが当たることは中々ない。学会員にも言えることだが、多くの日本人は細かい宗教の教義に興味を持っていない。信仰心は篤そうだが信仰の中身には興味がない。法華経が歴史上の人物としての釈尊直筆でないこと、あるいは日蓮遺文とされているもので確実性がありそうな文章が6割程度であることなど、創価学会の信仰そのものが批評の対象となることは稀である。

 

 世間の多くが注目するのは政治だ。公明党の党勢、政治情勢に関連して創価学会が話題になる。思うに、公明党が存在しなければ創価学会を議論のテーマに据える人物も減るだろう。政治情勢が一段落したタイミングー例えば自公政権が成立した後ーにおいて、創価学会への言及は減少してきた。公明党(と選挙支援)をとおした政局へのプレッシャーが創価学会インフルエンサーとしてのステータスと言っていい。二番煎じの創価学会公明党批判を展開した民主党が政権奪取後にそれをピタリと止め、自公政権が復活して池上彰氏が地上波で創価学会を取り上げた。世間が何を気にしているか(為政者やメディがどんなウケ狙いをしているか)はわかりやすいと思う。

 

 政治色の薄い人物が関心を抱いてきたのはセーフティネットとしての創価学会。社会の緩衝材として、戦後日本に相互援助組織を築き上げた創価学会。それは信濃町からのオーダーと言うわけではなかったと思うが、縦線だろうと横線だろうと、体温を感じられる生きた個の集団としての創価学会は、互助組織として機能してきた。おそらく、創価学会を好意的に捉える人物の根拠はそこにある。学会員の場合、人間味あるリーダー池田大作とそこに集った同志という発想のもと、本来ならば個人的な行為である他者への慈しみが組織としての存在理由へと変換される。

 

 さて、上記3点に集約される創価学会の存在意義であるが、これは現在如何ほどであろうか。結論から述べると、信仰団体としては当初より壊滅的、政治勢力としては変遷を重ねアイデンティティーと進路を失い、互助会としては機能しつつも時代の変化に対応できていない。一つずつ見ていく。

 

1.信仰団体としての創価学会

 本ブログにおいて幾つか記事にしているけれども、創価学会の信仰内容、その教義は当初より破綻気味で現状は自語相違の極致に来ている。また文献学的な手法は、日蓮そして仏教そのものにも随分切り込んでいる。

創価学会の教義問題について(教義の一貫性とか独自性とか) - 狂気従容

創価学会の教義問題(無量義経と戸田城聖) - 狂気従容

創価学会の教義問題(その先にあるもの) - 狂気従容

 

リンク先と重複するので細かくは説明しないけれども、創価学会の教義には文献学的成果に耐えられるだけの強度が確保されていない。また、過去の主張との一貫性もない。どうにかこうにか筋をつけようと努力したとして、日蓮や仏教そのものにも切り込まれると厳しいものがある。

 

これまで、創価学会がそれっぽい理論を構築したように見せかけられたのは、話題の多くが大石寺周辺に限定されていたからだ。広がっても日蓮まで。日蓮正宗周辺と日蓮系の一部を相手にーそれもインターネットの無い時代にーしていればよかった。今はそうはいかない。教義の文献的検討に関しては、先達の方々がおられるので参考にして頂ければと思う。私より余程くわしいだろう。

 

日本に至る前の経典までが議論の対象になる現在、一教団だけに筋の通ったナラティブを構築するのは無理がある。もっとも、信仰そのものに対してニューロサイエンスが攻勢を始めそうな現状においては、どこの宗教団体にも無理な話かもしれない。

 

2. 政治勢力としての創価学会

 公明党に関しては、党勢の凋落もさることながらアイデンティの損失、ポリシーの欠如(正当なのにポリシーが無いとはこれ如何に)が致命的である。まず安全保障政策関連が滅茶苦茶である。

公明党は右傾化したか - 狂気従容

巡航ミサイルと公明党と学会員 - 狂気従容

 

公明党は元々、日米安保の段階的解消を訴えてきた。それは1970年代後半には二枚舌をもって翻されたが、

公明党の安全保障政策、その二枚舌(1977年の外交公電より) - 狂気従容

 

そもそも、米軍基地が集中する沖縄では東京と違う判断もあった。

翻弄された沖縄公明党-在日米軍基地政策への葛藤 - 狂気従容

 

必ずしも池田大作の思想が反映された党というわけでもなく、

池田大作と公明党の相違1(1975年の公文書より) - 狂気従容

池田大作と公明党の相違2(創共協定に関連する公文書より) - 狂気従容

 

池田大作の言動自体が短絡的かつ詐欺的と言える。

創共協定と反共勢力としての創価学会(1975年のアメリカ公文書より) - 狂気従容

 

原田会長、八尋副会長がアメリカ大使館と政治政策を協議し、

創価学会と安全保障関係(アメリカ大使館との協議) - 狂気従容

創価学会とアメリカ大使館(政変に関連する意見交換) - 狂気従容

 

軍閥政治ならぬ宗閥政治とも言えるくらいの影響力を持っている様に思える(統一教会ってこんなことできるのかしら)。冷戦時代を駆け抜けた建前上の”平和の党”は党勢確保と影響力の保持は希望していると推測されるが、何を成したいのか意味不明と言わざるを得ない。

公明党に妙手なし - 狂気従容

 

Twitterでも呟いたけれども、「格差と階級の戦後史」で引用されている2016年の調査によれば、所得再分配政策を強く支持する各政党支持層の順番は、共産(約44%)、民進(当時)(約32%)、公明(約26%)、自民(約10%)の順である。公明支持層の場合、自己責任論との親和性には信仰も関係しているー全ては自分とご本尊で決まるーと推測できるが、庶民の政党が所得再分配を支持しないのは不思議である。最近では、議員の不祥事も続いている。

 

3. 互助会としての創価学会

 創価学会員が創価学会に愛着を感じるのは、信仰心や池田大作への忠義建てだけではない。むしろ身近な会員との友誼による。どの団体にも言えるだろう。組織の掲げるイデオロギーよりも差し出された手の温かさに感銘するのが人間なのかもしれない。例外もいるけれど。

 

 現在においても、セーフティネットとしての創価学会は多少なりとも機能していると思う。しかしながら、創価学会の人間関係によって心身を損傷してしまった方もいる。誰かにとってのセーフティネット(正確にはその構成員)が誰かにとってのギロチンになることもある。私の場合は家族だった。

 

創価学会の互助組織としての有益性と宗教2世問題に象徴される人権侵害、どちらの影響が強いかを数字によって客観性をもって証明することは困難である。やろうと思えばできるかもしれないが、データを集めるのが難しいだろう。ただ言えることは、創価学会員の人数はかなり減少している。

創価学会の会員数について(統計データによる) - 狂気従容

 

創価学会、その構成員たる創価学会員に魅力が無くなったとも言える。人との付き合い方、有機的なつながりにどの程度価値を見出すか、戦後80年の変化があったという見方もできる。生涯独身で碌に友人もいない人間が、今の創価学会セーフティネットとしてのメリットを感じるか。そこから議論を始める必要がありそうだ。日本社会の格差の固定化が進み、会員間の格差も隠せない現状、創価学会は互助組織足り得るか。

 

学会員がその救済励まし運動を継続するモチベーションには、信仰や池田大作の存在が少なくないと思うけれど、それ等が検証に耐えられるものかは疑問である。信仰心関係なく誰かを助けたいというならば、宗教団体(創価学会)である必要はない。無宗教のボランティア組織にすればいい。日蓮もいらないだろう(多分足枷になる)。

 

活動の継続性に、組織やリーダー、政治力が必要なのは一般論としては妥当だ。それは宗教団体に限らない。しかしながら、誰かにとって都合の良い組織は誰かにとっての不都合になる。組織に正当性を確保しようとすると、どうしても悪党が必要になる。そこに宗教性が加われば、互助会はいつでも先兵や愚連隊に成り下がり聖戦を始める。

 

 信仰団体としては当初より破綻し改善は困難、政治勢力としては凋落気味で舵不調、互助会としては機能を維持しつつも弊害が散見され時代の要請も乏しい。創価学会はその存在意義を問われている。