狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

山上徹也の合理性

 タイトルからして危険な香りがするのは承知している。おそらくはあまり賛同を得られないことも理解している。トップページにあるように「このブログは、頭に貯めておくと駄目になりそうなことを文字にして吐き出す場所」である。落ち着く仕草は人それぞれあるだろうけれども、私は文字にすると落ち着く。

 

 事件から4ヵ月が経った。事件に関する報道が控えめになる中(統一教会関係はある程度流れている)、酒の飲めない休日、山上徹也のことを考えることが多い。おそらく、彼が見てきた景色と私の眼前に広がっている風景は似ている。だからだろうか、ふとした時に彼の影を追いかけているような気がする。

 

 山上徹也はだいたい私と同じ世代と言っていいだろう。彼の母親の教団への献金額は定かではないし、宗教活動による破産というのは想像に絶する。しかしながら、彼がどういう人生を歩んできたのか私には分かる。極端な宗教家族に人生を振り回される辛さが私には分かる。自分のポンテシャルを親の宗教活動に潰されたことがあるだろう、自他の違いに執着する必要性があっただろう、自分が抱えている苦しみが他人に理解されないことを承知していただろう、理解されたとして助けにならないことを過去が変わらないことを受け入れようと努力しただろう、普通になれないことを認めながら孤独な夜と希望の無い朝を何度も迎えただろう。そして、それでも何とかもがいて社会規範を守ってここまで生きてきたのだろう(彼に前科があったとの報道はない)。何より、彼には無私の愛を享受した体験がないのだろう。

 

 普段、他人に大して興味関心を抱かない、誰かに共感することの少ない私ではあるが、彼に関してはある程度の自信をもって「分かる」と言える。子育ての苦労だとか、伴侶とのいざこざだとか全く分からない私であるが。山上はゼンマイ時計が最後は動かなくなるように、落ち着く場所に落ち着いてしまった。

 

 事件を起こさない未来もあった。もしかしたら、残りの人生は豊かになったかもしれないと。可能性は確かにあった。だが蓋然性は低い。

 

 42歳高卒独身の派遣社員。その先が茨の道であることは客観的に理解できる。彼は事件を起こし人生に大方のケリをつけてしまったが、仮に事件を起こさなくともあらかた詰んでいたと思う。いや、生まれた時から詰んでいた。彼は自己の存在自体が憎しみの対象になることを理解していたはずだ。自分の努力ではどうにもならい要素によって、苦しい人生を歩まされた。生まれ育ちのハンデは、多少の才覚ではどうにもならない。

 

 仮に彼が事件を起こさなかったら、孤独死か自殺しただろう。安月給で貧相な賃貸を住処に動けなくなるまで働いて、それで終い。母親の介護も必要だったかもしれない。報道によれば、彼の父と兄は自殺している。3親等以内で2人も自殺者が出ていれば、3人目がでても全くおかしくない。生涯独身男性の半分は67歳まで死ぬのだから、彼には残り25年の期待値があった。不健全な発想だろうけれど、懲役25年と表現できるかもしれない。彼の判決がどう出るか分からないけれど、事件を起こさなくともー

 

 彼に自分の人生を掴むチャンスがあったとすれば、つまり共同体や公的機関が介入してくれない宗教家族の呪いを克服する手法があったとすれば、15歳くらいで母親を物理的に排除してしまうか、兄弟ごと家族を見捨てるかどちらかだろう。未成年の殺人ならば15年も刑期はないかもしれない。30歳の前科者にこの国が優しいとはとても思えないけれど、少なくとも異常な献金や介護に苦しむことはなくなる。家族と絶縁しなかったのは、兄弟への執着未練があったのではないかと思う。家族に問題がある人生というのは、プラスを求める人生ではない。いかにしてマイナスを減らすかに帰着する。

 

 彼は42歳で赤の他人ー安倍晋三が生きていようと死んでいようと山上徹也の人生には直接関係がないーを殺めてしまった。善悪の判断は本記事の埒外なので言及しない。彼にとっては、それなりの合理性があったように思える。前述したように、彼は助かる手立てに乏しく、人生の大半が詰んでいた。どの道、先は無かった。言い切るのは難しいが、蓋然性で判断すれば厳しい未来だったと推測できる。大人しく孤独死するなりひっそり自殺してくれた方が世間的には都合が良かっただろうけれども、ここで注目しているのは山上の方の都合だ。もっとも、山上が事件をおこさず何処かでひっそり死んでいたら、世間は誰も注目しなかっただろう。

 

 建設的な意見を求めるならば、福祉や教育に力をいれて山上徹也のような人物が育たないようにすべきなのだろうけれど、それが達成されるまでにはかなりの時間を要する。今現在、生を受けた人間には役に立たない。失われた機会は戻ってこないのだ。

 

 青い空を背負ってどこまでも自由に歩いている権利を放棄して、塀の中で厳しい集団生活を強いられることが合理的か?と問われれば、私の中では合理的ではない。失う物も無く、ただ苦しいだけの生活が続くという予測に対し短気を起こして結末を求める。それを合理的な判断とする者もいるだろう。山上徹也なりの合理性がそこにはあったと考えている。良くて孤独死、悪くて自殺。もっと悪けりゃテロリスト。彼は最後を選んだ。

 

11/6追記:現時点における報道内容を見た上での記述。親子、兄弟関係については、裁判開始後に判明する部分もあると推測。その点、ご了承いただきたい。