狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

池田大作との思い出

生活のため、生きるため、信仰あるいは創価学会というコミュニティーを認める必要があった私にとって、心の底から素直に池田大作を尊敬したことも、師と仰いだことも、無かったと思う。「尊敬しなければいけない」という強迫観念とそこから生じる「尊敬しようとする努力」はあったけれども。

 

池田氏の存在よりもイカレタ宗教家族の方が余程、私の人生に影響を与えた。もちろん悪意味でだ。そのため、創価学会から距離置く際、池田氏への葛藤は全くなかった。私にとっては、生活を成り立たせる為に社長の自費出版書籍を読む、そういう類の扱いだったのかもしれない。

 

そんな私だが、池田氏との忘れがたい思い出が2つある。一応断っておくと、自慢話でも何でもないし、これと言って重要な情報も含まれていません。個人的な、ほんの些細なエピソードです。

 

1つ目。私は一回だけ、池田氏から直接声をかけられたことがあります。特に長い会話でも何でもないですし、私が特別な人間だったからでもありません。池田氏が出席する創価大学の式典で、たまたま前の方の座席に座る機会があったからです。

 

皆さんもご存知かと思いますが、池田氏はよく大きな会合で、出席者に対し質問をすることがあります。質問内容は、多岐にわたります。質問することが会員とのコミュニケーションだったのかなと思います。

 

で、ある式典で私の隣に座っている女学生が池田大作から質問を受けました。女学生は突然のことで緊張したのか分かりませんが、答えられずにいました。なので、隣に座っていた私が替わりに答えてしまいました。その時、池田氏から声をかけられました。

 

「君に聞いたんじゃない。余計なことは言わなくていいんだ」

 

とです。私が池田大作から直接かけられた言葉はこれだけですね。余計なことは申し上げません。但し、必要だと思ったことを発信させてもらいますよ。

 

2つ目。池田氏が出席する会合に、金属探知をすり抜け、小型バールとスパナを持ち込んだことがあります。

 

あれは高校生の時、なぜか地域の代表として池田記念講堂での会合に参加することになった日。いつもの通学バックに荷物を詰めて、担当者の人と一緒に八王子まで行って、初めて池田大作と言う人物をこの目で見た日。創価学会のことも公明党のことも良くわかっていなかった17歳の夏でした。当然、会合参加に荷物検査があるなんて知らなかった。

 

当時の私は、通学バックに小型バールとスパナを常駐させていた。使用する機会は滅多に無かったが、何となく持ち歩いていた。中高生にありがちな、歪んだ小道具愛である。んで、そのバックをそのまま持って行ったわけです。

 

式典開始前、講堂前に人だかりができて、列を作って入場待ちとなってしばらく、前の方にゲート状の器具が設置されていることに気が付いた。金属探知機だ。私の無駄知識が役に立った瞬間だった。やばい。バックの中には小型バールとスパナが入っている。見つかれば面倒になる。

 

もう少し観察する。手荷物は手前で目視確認。金属探知機は手ぶらで潜るみたいだ。これなら、バックさえやり過ごせば大丈夫だ。待機列の人混みで周囲の視線を遮りながら、小型バールとスパナの位置を変える。内側にジッパー付きの収納スペースがあるタイプのバックだったので、そこに動かす。小型バールとスパナをタオルで包み、ぱっと見で分からないようにする。小型バールとスパナがある方を机の下側にして、手荷物チェックのお姉さんに渡す。無事突破。冷や汗が出た。会合どころではなかった。

 

で、入場して式典が始まってから気が付いた。「もしかして私、凶器を持って池田大作に接近した数少ない人物なんじゃない?」と。勿論その「意図」は無かったわけだけど、式典中そんなことを考えてしまった。

 

その時以来、池田氏が出席する式典に参加するたびに考えるようになってしまった。「私がもし、いや、私でなくても他の誰かが、凶器を忍ばせて池田大作を誅殺したら、歴史は変わるのだろうか」と。私が創価学会公明党について、知見を得たときには池田氏は既に表舞台から消えていた。その機会が訪れることは無かった。意図も無かったけど。

 

独裁に対抗する最高の手段は暗殺である。一人の権力者によって維持される組織は、1人の死によって終わる。だが、創価学会の場合、そう単純な話ではないだろう。現に、10年以上姿を現さない男の名を借りた連中が、数百万人の活動家を通して、この国に影響を与え続けている。池田大作がどこかのタイミングで亡くなっていても、創価学会がその瞬間に消えるということは無かったろう。

 

凶器は狂気に変わったかもしれない。余計なことは言わないかわりに、伝えるべきことを進言するようになったかもしれない。私にとって、池田大作との個人的な思い出はこんな感じです。特にオチはありません。