狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

心こそ大切なのか

「ただ心こそ大切なれ」(四条金吾殿御返事)
この文言、創価学会員が好んで引用する一節ではないでしょうか。

「心の師とはなるとも心を師とせざれ」(兄弟抄)
こちらも引用されることが多い文章ですね。

 

ここでは両遺文の意義・中身は吟味しません(ちなみにですが、四条金吾殿御返事には真筆が存在しません)。フォーカスしたいのは「心」です。日蓮鎌倉時代の人間なので、心というものを現代風に解釈していないのは当然ですが、では現代人はどうでしょう。今回は、心こそ大切なれで大丈夫なのか?少し記事にしたいと思います。

 

心はバックボーンとしての脳を無視できない……というのは大方の現代人ならば納得できるでしょう。心には物理的な背景があり、実体が存在します。脳です。精神・感情-心の表現型―というものが、脳の働きで変化することは正当な研究からも、そして個々人の実体験からも納得できるかと思います。

 

脳科学」というフレーズで箔をつけた胡散臭い書籍が氾濫していますが、本来は生理学(あるいは解剖学とか?) の探求領域の1つに過ぎないはずです。今は変なブームに乗っていますが、本来は伝統的かつオーソドックスな探求対象かと思います。大河ドラマにあわせて特定の時代が注目される様なものですかね。心の背景に脳があるのは良いでしょう。では、脳の先には何があるでしょう?

 

かつて、脳に物理的な施術を施し精神疾患を治療する精神外科という分野がありました。脳切除のロボトミー手術が有名です。その功罪は別にして、脳という物理的な変化が人間の心を変化させるという事実を実証したことの意味は非常に大きいと思います。

 

アルコール依存症者や薬物中毒者の一部で、脳の萎縮(と人格変化)が認められるのは有名な話です。動物実験レベルでは、幼年期の生育環境が脳構造に変化を与え、ストレス耐性に影響を与えることなどが確認されています。人間の症例報告においても、因果関係の有無は未決にしても、脳構造の変化と人格・機能変化の関連性は多数報告されています。虐待された子供の研究や戦争後遺症としてのPTSD等が分かり易い事例と言えるでしょう。

 

心には脳と言う物理的な背景があり、その脳はハードウェアであり、様々な刺激によって変化する……場合によっては可塑的でなく永続的な不可逆変化になり得る。かなり極端な例を挙げると野生児が有名でしょうか。野生児、幼少期に一定期間非人間的な扱いを受けた子供は、言語機能や人間としての社会性を身に着けることが困難であるという幾つかの事例(臨界説)。

 

専門家でない私には、野生児として報告されている話の中から学術的に信頼のおける事例を選別吟味することは出来ません。脳構造の変化と心(人格や精神)の関係について、具体的な原因を検討することも考察することも難しいでしょう。それでも、心の実態としての脳が、腕や足と同じ物理的な背景を持った体の一部であることを十二分に認識させてくれます。

 

認知症アルツハイマー病など、一部の脳疾患は人格を変貌させてしまうことがあります。メカニズムの全貌が未だ解明されていないとは言え、脳構造の変化が心を変化させる事例の1つかと思います。脳の先には道理があると。

 

ちょっと余談ですが、ソシオパスやサイコパスのような(これらはオカルトでも比喩表現でもなく物理構造を背景に持ったサイエンス)状況を果たして改善できるのか?という問いかけは、人権や宗教の在り方を大きく変化させる可能性を秘めています。だってそうでしょう?他人の人権を何とも思わない人間、それが物理的に更生不可能と言うのならば、どのように遇すれば良いのか?座敷牢の復活か、予防的処置(つまり物理的に排除する)か。脳科学の危うさはいずれ身近な問題になるでしょう。

 

創価学会は、「不可能を可能にする信心」と謳い「祈りとして叶わざるなし」と宣伝してきましたが、本当に「不可能を可能にしたか」と言えばNoです。例えば、不老不死のような道理の外にあることを「可能だ」とは言ってきませんでした。死者の復活の様な、呪術的な宗教団体にありがちな主張は排してきました。

 

「不可能を可能にする信心」「祈りとして叶わざるなし」……でも道理には逆らえないよと。それはまぁ当然と言えば当然で、私もおかしなこととは決して思いません(功徳論、本尊幸福製造機説、疾患持ちメンバーへの励まし等は別の話です)。御肉芽のことは少し忘れて下さい。

 

人体に関して、これまた極端な例をあげますと、事故や病気等で不可逆的に失ったもの、例えば手術で切り取った臓器が復活する……などということはないわけです。機能として代理が効いたとか、失っても生活レベルに変化が無かったとか、そういう事例は多分にあるだろうけれども。何らかの理由により物理的に欠けてしまった、そういう不可逆的な変化は覆せない。流石の創価学会もそれは認めてきました。

 

創価学会はその様な場合、「馬鹿にされない境涯になる」「祈っていけば結果的に以前より良くなる」「全部意味がある」などと指導してきました。その指導で元気になった人もいるでしょう。逆に苦しくなった人もいるでしょう。ここではその功罪は問いません。現世利益重視で不可能を可能にすると宣伝してきた団体。そんな創価学会ですら、物理法則には従ってきました。道理に逆らう主張はしてきませんでした(御肉芽のことはもう少しだけ忘れて下さい)。創価学会の信心で空中浮遊は出来ません。

 

で、心の話に戻ります。前述したように、心には物理的な背景としての脳があり、脳の物理的な変化は時に不可逆的です。萎縮したり、切除したり、元々欠損していた場合、「心」はどう頑張ってもある一定の範囲から変化しません。それは道理です。

 

創価学会は最低限の道理は認めてきました。死者の復活だとか不老不死だとか、物理法則を無視するような課題を可能とは言ってきませんでした。では「心」はどうでしょう。観測困難な領域に逃げていませんか?

 

「心」というものを観測困難な、宇宙生命とか境涯とか九識論とか(九識というターム、日蓮真筆遺文には殆ど存在しない)そういうフィールドに逃がしていませんか?創価学会員の言うところの「心こそ大切なれ」は、どこか非科学的というか、現代科学の隙間に潜みながら無理筋の根性論を日蓮という権威を利用しながら振りまいているだけと言いますか……聞いていて結構怖いのですよ。

 

高さ1mから飛び降りて骨折する人もいれば、無傷な人もいるでしょう。高さ3mならどうか、5mなら、10mなら……100㎞なら?全員亡くなりますよね?心も同じですよ?科学・物理法則に縛られた臓器なのです。

 

このテーマ、宗教と心と科学、そんな簡単にケリがつく話ではないと思いますので、また色々考えて記述したいと思います。何が言いたいかと言うと、いずれ心や人格を数字で表現できる時代がくるだろうということ、物理的に変わらり難い心もあるということです。