狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

はじめにお読みください(注意書き&目次)

注意

このブログは、頭に貯めておくと駄目になりそうなことを文字にして吐き出す場所です。際どいテーマを記事にすることが多いと思いますが、それらを推奨・礼讃しているわけでありません。

 

また、特定のイデオロギー、思想、ある種の団体、特定政党、政権ないし政策に賛同または反対を表明するものではありません。政治的意図もございません。あしからず。

 

私は受け入れつつあります。

報われないであろうこと。

楽しみと呼べるものが少ないこと。

人に愛されないこと。

人を愛する感覚が無いこと。

壊れた人生であること、狂っていることを受け入れつつあります。

狂気従容です。

夢も希望もありません。

熱意や興奮もありません。

恋人もまともな家族もおりません。

友人は……少しだけおります。

ないない尽くしです。しかし、まだ死ねません。

生に未練があるのです。

 

目次

創価学会関係(教義、組織、歴史)

創価学会の歴史1 - 狂気従容

創価学会の歴史2 - 狂気従容

創価学会の会員数について(圧倒的な少子化) - 狂気従容

創価学会員物語1(仕事と家族) - 狂気従容

創価学会員物語2(婦人部の特異性) - 狂気従容

アメリカ創価学会の衰退 - 狂気従容

教義問題の思い出 - 狂気従容

創価学会の教義問題について(教義の一貫性とか独自性とか) - 狂気従容

創価学会の教義問題(その先にあるもの) - 狂気従容

創価学会の教義問題(本仏論) - 狂気従容

創価学会の教義問題(大御本尊関連) - 狂気従容

創価学会の教義問題(創価学会と日蓮正宗の不一致) - 狂気従容

創価学会の教義問題(日蓮と平和主義) - 狂気従容

創価学会の教義問題(知られていた矛盾と今後の課題) - 狂気従容

創価学会の教義問題(適当な本尊選び・宗創問題の不毛さ) - 狂気従容

創価学会の教義問題(いずれまた変わる教義) - 狂気従容

創価学会とインターネット - 狂気従容

創価学会職員について - 狂気従容

創価学会は戦わなくなった - 狂気従容

信仰の試行錯誤 - 狂気従容

創価学会が失敗した理由 - 狂気従容

創価学会の教義問題(日蓮は何を残したかったのか) - 狂気従容

創価教育機関の余命 - 狂気従容

米国公文書から読む池田会長の辞任劇と昭和54年問題 - 狂気従容

創価学会の教義問題(罰論功徳論と本尊) - 狂気従容

信濃町に目を付けられる人 - 狂気従容

価値創造と日蓮主義 - 狂気従容

会員が創価学会から離れる理由 - 狂気従容

約束された崩壊へ(創価家族の末路) - 狂気従容

創価学会の教義問題(無量義経と戸田城聖) - 狂気従容

本部職員の存在意義 - 狂気従容

本部職員の傾向 - 狂気従容

池田大作怒る(創価大学での思い出) - 狂気従容

池田大作との思い出 - 狂気従容

心こそ大切なのか - 狂気従容

創価学会の女性について - 狂気従容

半径5mの地獄 - 狂気従容

創価学会の推移(年表) - 狂気従容

 

創価学会公明党関係(公文書を中心に)

大阪都構想と創価学会 - 狂気従容

創価学会とアメリカ大使館(政変に関連する意見交換) - 狂気従容

公明党の歴史(前編) - 狂気従容

公明党の歴史(後編) - 狂気従容

公明党と自民党の歴史(自公連立政権ができるまで) - 狂気従容

創価学会と安全保障関係(アメリカ大使館との協議) - 狂気従容

創価学会とアメリカ大使館(内情の伝達) - 狂気従容

池田大作と公明党の相違1(1975年の公文書より) - 狂気従容

池田大作と公明党の相違2(創共協定に関連する公文書より) - 狂気従容

選挙活動の思い出(2009年の衆院選) - 狂気従容

巡航ミサイルと公明党と学会員 - 狂気従容

公明党は右傾化したか - 狂気従容

遠山清彦衆議院議員の辞職に見る創価の格差社会。 - 狂気従容

野党が公明党をガチ批判しない理由 - 狂気従容

連立政権ー歴代2位の与党歴の公明党 - 狂気従容

翻弄された沖縄公明党-在日米軍基地政策への葛藤 - 狂気従容

創価学会員と立憲民主党 - 狂気従容

 

宗教諸々

補陀落渡海 - 狂気従容

宗教2世・3世の問題について - 狂気従容

宗教から離れたいときー宗教2世3世へのTips - 狂気従容

 

社会情勢(かなり偏った)

いずれ起きる大規模テロ事件に関して-コロナはテロを誘発する - 狂気従容

現代日本政治のおさらい - 狂気従容

日本の犯罪傾向(コロナは犯罪も自粛させる) - 狂気従容

コロナはテロを誘発する2(身近な動機) - 狂気従容

安倍政権とスキャンダル(第一次安倍内閣の頃) - 狂気従容

コロナはテロを誘発する3(50万分の1のリスク) - 狂気従容

コロナはテロを誘発する4(試される6月、無差別・通り魔事件の季節性) - 狂気従容

インセルはテロの潮流になるか - 狂気従容

 

軍事

おすすめ軍事書籍ー戦争における「人殺し」の心理学 - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ー普通の人びと - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ーこれが人間か - 狂気従容

おめすす軍事書籍ー ペリリュー・沖縄戦記 - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ー容赦なき戦争 - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ー機関銃の社会史 - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ー裏切られた空 Der verratene Himmel - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ー兵士たちの戦後史: 戦後日本社会を支えた人びと - 狂気従容

おすすめ軍事書籍ードキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 - 狂気従容

 

自殺について(死なないで)

希死念慮に、自殺に飲み込まれそうになったら、他の何かをすること - 狂気従容

コロナによる自殺者数の増加 - 狂気従容

5月までが勝負(出来る備えをしましょう) - 狂気従容

東京七輪ピックになるのか - 狂気従容

国民の1%が自殺する国、日本 - 狂気従容

自殺を否定できない - 狂気従容

 

雑感・雑談(あるいは心地よい狂気)

他人の人権が嗜好品になりつつある - 狂気従容

好奇心は猫を殺すが、無関心は人を殺す - 狂気従容

改革・変革を望むのなら - 狂気従容

孤独な私と人権問題 - 狂気従容

科なくしてテロリスト - 狂気従容

感覚の違いを乗り越えるのは難しい - 狂気従容

弱者男性について当事者が思うこと - 狂気従容

東京都議会議員候補 Salemのマニフェスト - 狂気従容

ブラックユーモアの嗜み - 狂気従容

結婚とか労働とか弱者男性とか(ほぼ雑談) - 狂気従容

 

個人的なこと(基本的に暗い話)

何とか生き延びた - 狂気従容

DontBeSilent、壊れた我が人生。 - 狂気従容

拝啓、創価大学様 - 狂気従容

大学恩師からの便り - 狂気従容

大学時代の与太話。あるいは、ホラ話。 - 狂気従容

恩師逝く - 狂気従容

インセルはテロの潮流になるか

先週は終戦記念日だった。まぁ実際は敗戦の日だろう。それは置いておいて、今年は戦争特集が少なかったように思う。コロナにオリンピックと、話題を取られた感がある。8月ジャーナリズムも76年。当事者世代から話を聞ける機会も減少している。 

 

9.11から20年。21世紀の戦争が始まってから20年の節目である。アフガニスタン情勢がカオスを極める中、対テロ戦争をどう評価するか、あらためて議論が必要とされるところである。日本を含めこの戦争の当事者世代はバリバリ生きているので、生きた議論が出来ると思う。イラク戦争も含め、中東周辺の武力介入に関して向き合う必要があるだろう。 

 

1. 話題性と実害は比例しない

そんな中ではあるが、今回記事にしたいのはタイトルにある通り、インセルは次のテロの潮流なのか?という話だ。いや、少し大げさなのは分かっている。話題性と実害(または実利)は比例するとは限らない。人の死を数字だけで評価するのは危険な行為だが、第二次世界大戦、9.11から対テロ戦争インセル関連の事件と犠牲者の数を比べれば、その差は明らかである。 

 

米国は、20年間に渡るアフガニスタンでの戦闘で2500名近い戦死者を出したが、硫黄島の戦いにおける米兵の死者数は1ヶ月ちょっとで6800人。戦争の規模としてはその程度だ。現地住民の被害は甚大だと思うが、数千万人が亡くなった第二次世界大戦に比べればかなり少ない。数が少ないからと犠牲を矮小化するつもりはないけれども、規模としては比較にならない。それは事実だ。 

 

オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件や、ラスベガス銃乱射事件、ウトヤ島銃乱射事件に比べれば、インセルが引き起こした事件の規模はかなり小さいといえるだろう(繰り返しになるが数が少ないからと犠牲を矮小化するつもりはない)。フェミサイドなる言葉を初めて知ったが、エリオット・ロジャーが10人いても死者の合計は60人。6000人ならともかく、60人では世の中をひっくり返す数字にはならないだろう。前述したように、話題性と実害が比例するとは限らないので、今後同様の事件が発生するたびにスポットライトが当たれば、もっと大きく社会を動かしていく可能性は残している。それは事実だ。 

 

2. 差別は殺人に対するストレスを減少させる

以前少し記事にしたが、人間は元来、殺人に強いストレスを感じるようにできている。殺人は人間にとって非常にハードルの高い行為なのだ。そのハードルを下げる一番の方法は相手を人間と思わないこと。人間を殺すことに抵抗があるならば、相手を人間だと思わなければよい。 

 

 おすすめ軍事書籍ー戦争における「人殺し」の心理学 - 狂気従容

 

人種差別の類がいかに戦争を容易にしてしまうか、そこには明確な根拠があった。人種差別に限らず、相手の人間性を否定する行為は殺人のハードルを下げる。 人間性・人権の否定(差別)は殺人の免罪符、収容所への直行便、戦争への片道切符だ。21世紀に問題となるのは、その差別の形態だろうと思う。

 

3. テロリストに人権は無い(そして区分けも無い)

ここでテロリストについて少し考えてみたい。テロリストの定義とかを展開しても良いのだが、今回話したいのはテロリストの役割、21世紀にテロリストはどの様な意味をもたらしているかという点だ。 

 

 

前述したように、差別というのは殺人のハードルを下げる。かつて20世紀までの戦争においては、人種、宗教、国籍が差別の中心テーマとして成り立ち、敵対国の非人化という観点から戦争遂行を支えていた。第二次世界大戦はその象徴だろう。 

 

おすすめ軍事書籍ー容赦なき戦争 - 狂気従容

 

しかしながら、基本的人権の尊重というものが不変思想として主要国でコンセンサスを得るようになるにつれ、人種、宗教、国籍を言い訳にした殺人の肯定は困難になってしまった。現場や末端兵士の心根は別にして、国家のお題目として敵対集団を差別することは出来なくなってしまった。 

 

そんな中、殺しても咎められない存在がいる。テロリストだ。テロリスト(自由への脅威)だけは今でも殺しの免罪符が適用される。人種、宗教、国籍を敵対理由に挙げることが困難な現代において、テロリストという言葉は実に便利だ。テロリストには、人種、宗教、国籍の区分けがない。性別も年齢も関係ない。この20年間の対テロ戦争は、地域性としては中東、宗教としてはイスラム過激派と、テロリスト=アラブ系というイメージを強化してしまったが、本来、テロリストには宗教も国籍も関係が無い。日本赤軍FARCアルカイダもテロ組織で一括りだ。 

 

テロリストという言葉は、人種、宗教、国籍による差別をタブーとしたことで、殺人(暴力)の合理化が困難になってしまった21世紀の国家にとって、暴力を行使するに必要な概念の一つであるということだ。オンリーワンの根拠ではないだろうが、テロリスト(自由への脅威)の排除は-具体的な排除方法は別にして-高い支持を得続けるだろう。 

 

4. 弱者=差別なのか(かつての差別には分かりやすい集団性があった

弱者男性や非モテが差別に当たるかどうかは良く分からない。経済性、異性関係、同性との交友、家族関係。それ等における劣勢(弱者)が、差別に当たるかどうか。友人がいないのは自己責任なのか?配偶者がいないのは……そこに明確な回答はないかもしれない。しかし明らかなのは、経済性、異性関係、同性との交友、家族関係等のフィールドは、人種、宗教、国籍に比べはるかに個人的、Indivisualな要素に満ちているということだ。

 

20世紀に比べれば、人種、宗教、国籍による差別は多少なりとも改善されたと言っていいだろう(性別による差別も)。全てが解消されたわけでも、現状で満足ということもない。それでも、課題解決に成果があったのは確実だ。 

 

例えば考えてほしいのだが、労働と子育の両立に奮闘している日本人がいたとして、同じ様な境遇の外国人と、独身の日本人、彼なり彼女はどちらによりシンパシーを感じるか。その時、人種、宗教、国籍が大きな障壁になるだろうか。 

 

繰り返しになるが、差別は殺人のストレスを減少させる。相手を同じ人間と捉えることが、暴力を抑止する。では、友人も恋人も家族も、誰一人として愛しい人物がいないという条件で、他人の人権に興味を持てるだろうか。あるいは、友人も恋人も家族も、誰一人として愛しい人物がいない誰かを、同じ人間として扱えるだろうか。問われるのはそこだ。

 

5. インセルは次のテロの潮流となるか(思想なきテロリズム

話をインセルに戻す。インセル(とフェミサイド)は次のテロの潮流になるだろうか。予測するのは難しいが、インセルはこれまでのテロリズム(テロ組織)と違い、バックボーンになるほどの思想、強大な組織をオーガナイズするようなリーダーが今のところ不在だ。エリオット・ロジャーが一応の「教祖」とも言える存在らしいが、パブリックエネミーのビンラディンなんかと比べれば影響力の差は歴然だ。これまで世界に恐怖をばらまいたテロリズムには、思想やリーダーにある種の力強さがあった。今のインセルにそれは無い。ヘイトクライムの実行者達も、思想としてのバックボーンをレイシズム等に求めているだけで(暴力への免罪符が欲しい)、本来の動機(要因)は非常に個人的な部分での劣勢に起因するかもしれない。 

 

もしこれから、インセルを束ねて先導するような人物なり体系だった思想なりが出てくれば、21世紀の中盤戦に名を連ねる「個人的なテロリズム」を確立していくかもしれない。フェミサイドに限らず、無差別殺人を合理化できるような思想(インセルにとっての暴力への免罪符)が出現すれば、今以上に勢いはつくだろう。あるいは9.11のような、数千人単位の悲劇を誰かが引き起こせば、テロの時代の大きな呼び水になってしまうかもしれない。

 

物心両面における格差の拡大とその固定化。それはもう手遅れ感があるくらいに悪化していると私は考えている。インセルに限らず(つまり男に限らず)、個人的な、Indivisualな要素に満ちたテロリズムは、これからも発生し続けるだろう。 インセル自体、格差の拡大とその固定化の中で生まれた副産物に過ぎないのかもしれない。

 

テロリストの多くは、社会的弱者から生まれる。なるほど確かに、豊かな人生を歩んでいる人物に殺人を実行するメリットはないだろう。弱者がテロリストになるというよりかは、社会的弱者にとって暴力(テロ)だけが平等性を実現(格差を是正)できる手段に見えるのかもしれない。あるいは自身を勝者に導く-ほんの一瞬で終わるにしろ-唯一の答えと思うのかもしれない。暴力はある意味平等で、全ての人間を弱者にカテゴライズしてしまう。3000Jの初活力を持つライフル弾に人間の頭脳は太刀打ちできない。物理的な話である。 

 

良くて孤独死、悪くて自殺。もっと悪ければテロリスト。救済の手立てが無く、破滅だけが約束されているとするならば、刹那のカタルシスを求めて暴力を選択する者は出続けるだろう。

 

ISISの興亡、ホームグロウン型テロ、ヘイトクライムの増加。振り返って考察しなければならないことは多いだろう。ISISが猛威を振るっていた頃、諸外国からISISへ合流した人達がいた。SNSの影響も大きい。21世紀の前半戦、この20年間の対テロ戦争を総括する暇もなく、次の戦争に突入していくのか。 

結婚とか労働とか弱者男性とか(ほぼ雑談)

男女別の年収と未婚率の関係を見れば分かるが、男は稼げない=独身。年収と未婚率に割ときれいな比例関係がある。女性は違う。本人の意思は別にして、女性は経済弱者でも結婚して養ってもらうという救済手段がある。男性の場合はない。公的福祉も貧弱なら、地域のコミュニティも死にかけ(そしてメリット少ない)なんで、経済弱者=生存問題となる。

 

私の考えを記述しておくと「生き延びる為だけに結婚して数十年間生活を共にする」という選択が気安く選べるものだとは思っていない。とにかく生き延びるための手段があるかないかの話。生存ルートの有無を確認している。

 

そもそも論で「就業における男女差別が年収差を構築しているのでは?」という疑問もあるが、これは数字をしっかり見てみないと分からない(まぁ現状はあるだろうな)。だけどそれ以前に、仮に男女平等の就業を実現できたとして、女性の産休や男性の育休を不足なくキャリアペナルティなく運用できるだけの企業がどれほどあるのだろうか。弊社は厳しいだろうな。

 

男女の、つまりジェンダーの問題という部分もさることながら、我が国の労働環境の劣悪さが根本問題なのではないかと思う。例えば日本女性の10%くらいが結婚、出産を放棄し、労働に人生を全振りしたとする。果たしてそれに見合うだけの報酬を提供できるだろうか。職場競争で男性を蹴落としたとして、企業の方に増加した女性労働力にペイするだけの体力あるの?って話。

 

誰が弱者かっていう議論とか、男女差別(ジェンダーの問題)に関して、もちろん話を進めていく必要はあると思うのだけど、仮にそれ等が整ったとして、ある程度解消の目途が付いたとして、運用できるかどうか。おそらく日本企業の体力勝負になるだろうなと思うのだが、それは可能なのか。男女の強弱以前に、男女平等を実現したとして今の日本でそれを運用できる余裕はあるのだろうか。おそらく厳しいだろう。外国人労働者の問題とか見るに、到底無理と言えるかもしれない。

 

コロナ禍での女性自殺率の増加(特に若年層)は、未婚で低収入な女性の生存の難しさを表しているように思う。自殺の原因が経済苦に限定されることは無いだろうが、人数はともかく(日本に限らず自殺者は基本男の方が多い)、自殺者の増加は不安定な雇用環境にさらされている女性の危機を反映しているだろう。諸般の事情で結婚しない(出来ない)場合、女性はセーフティネットを失うと。

 

高収入な女性は未婚率が上昇するというデータは有名だけど、経済的に自由になった女性にとって、結婚は魅力的に見えないのだろうか。良く分からない。仕事が忙しすぎて結婚の余裕がなくなるのかもしれない。また経済的に自由になって初めて、結婚という選択を「生存ルートの確保」という観点以外から評価可能になるのかもしれない。

 

年収と一口に言っても、労働時間や勤務形態が様々なのは明らかで、ワークライフバランスという観点からの評価も必要だろう(年収と幸福度の比較)。仮に女性が経済的に自立可能だと言っても、年収500万だけど残業まみれの独身生活と、年収250万(キャリアを築けない)+子育・家事の生活だけど基本定時近くで帰れるよって選択肢、どちらを選ぶかといえば中々判断難しいだろう(どちらを選ぶのも自由だと思います)。この場合においても、根本問題(議論の中心にすべき)は労働環境の厳しさであって、「女性は結婚して仕事で楽できる」では決してない。男性が「年収500万で残業まみれの独身生活」を喜んでいるとは思えない。年収500万で時間にそこそこ余裕があって、結婚したら家事・育児に時間をさける(キャリアへのハンデは無し)。男女に関係なく、そういう労働環境を用意できるのか?という話。

 

男性の場合はどうだろう。平成前期または昭和後期の最盛期に比べ、男性の平均年収(中央値も)は下降傾向なので、共働き(生存ルートの拡大)という観点を含んだ結婚は増加したと思う。派生して話すが、男の稼ぎが減少したがために女性も経済力をつける必要性に迫られているという部分もあるだろう。データを探せば、男女が結婚に何を求めているのか?というのはある程度判断できる。

 

男性は自己の生存に結婚が必需品では無い(むしろリスクになることもある)にもかかわらず、それでも結婚する。それが子孫を繁栄させたいからなのか、若き日の性欲なのか、老後の備えなのか、伴侶の愛が欲しいからなのかは人によるだろう。まぁ統計データは解析できたとしても、心情としては私にはわからない。きっと永遠に分からないだろう。

 

これまた私の独断によるが、仕事での成功のしやすさと、異性関係の豊かさは相関があると思う。現代のルールにおいては、仕事で上手く人は結婚も容易。はっきり言えば、物心両面における生まれ育ちの豊かさがモロに影響している。個人の努力でカバーできる部分が減少している。社会が下り坂(新しいパイが減っている)なので仕方無いのかもしれない(既存のパイを奪い合う=最初のポジションに左右される)。金は無いけどモテる人、高収入だけど異性経験少ない人、減っていると思う。独身者も、独身貴族って言えるほど貴族していない。良くて独身武士だ(いつでも戦死できるね!)。

 

結婚・出産が無いとなると、社会性の装飾というか、オーソリティの確保という観点で、労働(収入)以外に道が無いのかもしれない。心の豊かさという点では、趣味が癒してくれるだろうが。同じ年収ならば、家族持ちと独身者どちらに信用や社会的な権威が付くか。自明だ。家族持ちに決まっている。

 

もうちっと数字を見て行けば、弱者男性というのは、経済性、異性関係、同性との交友、家族関係、その全てにおいて劣勢になりがち(ようは全部だめだから弱者になる)。女性の場合も基本は同じだが、経済性の劣位は結婚によって多少回避できる可能性を残している。どちらにしろ劣悪な労働環境がネックになっているし、差別の固定化はもはや不可逆的……というのが判断できる気がする。

 

ほぼ雑談。この話、また書きたい。

おすすめ軍事書籍ードキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争

プロパガンダ。一番有名なのはナチスのそれだろう。戦争に限らず、都合の良い世論なり世相なりを形成させたいと思う者は多い。自らが望む方向に社会を誘導する。それは困難ではあるが不可能なことではない。実際、ナチスを含めそれに成功した連中は居る。私は情報を食材だと認識している。調理方法や盛り付け次第で味も見た目も変わる。似たような食材から違う料理を作ることも可能だろう。載せる食器(メディア)も重要だ。味噌汁を平皿で出されたら台無しだ。 

 

今回紹介する書籍は、情報工作とも世論操作とも言える分野に焦点をあてた「ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争」である。著者はNHKで番組制作にも係るジャーナリスト、高木徹 

 

この書籍を紹介する前に、まず主題となっているボスニア紛争とその周辺状況について、説明する必要があるだろう。 

 

ボスニア紛争ユーゴスラビア紛争(1991-2001)の一つに数えられる。ユーゴスラビア紛争、ユーゴスラビア連邦が分裂する過程で発生した諸々の紛争は、20世紀最後の悲劇の一つに数えられ、戦後欧州最大の惨劇とも言われる。西と東。2極化された世界、冷戦。冷戦構造によって押さえつけられていた民族意識が、冷戦の終結によって戦争と言う形で解き放たれる。それはバルカン半島に限った話では無いが、凄惨極まりない紛争の始まりは民族対立だった。ユーゴスラビアの場合、チトーという偉大な指導者の存在も大きかった(1980年没)。1人に支えられたシステムは1人の死をもって終焉を迎えるのである。 

 

ユーゴスラビア連邦には、クロアチア人、セルビア人、アルバニア人など複数の民族が存在した。ユーゴスラビア連邦を表現するに「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」という表現があるくらいで、日本人にはあまりピンとこない世界であるが、単純に運営することの難しい多民族国家だったのである。 

 

ユーゴスラビア連邦は最終的に、スロベニア共和国クロアチア共和国北マケドニア共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国、セルビア共和国モンテネグロ共和国へと分裂することとなる(2021年現在)。この分裂過程で発生した諸々の紛争をひっくるめて、ユーゴスラビア紛争と言う。特に凄惨を極めたのが、クロアチア共和国の独立に端を発するクロアチア紛争(民族的にはクロアチア人VSセルビア人)とボスニア・ヘルツェゴビナの独立に起因するボスニア紛争(民族的にはクロアチア人とセルビア人とボシュニャク人の三竦み)である。 

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国には、クロアチア人(カトリック)、セルビア人(正教会)、ボシュニャク人(ボスニアで生活するイスラム教徒)が共存していたが、主に独立を望んだのはクロアチア人とボシュニャク人で、セルビア人は独立に反対の立場をとった。クロアチア人とボシュニャク人も仲が良かったわけではなく、紛争中に交戦状態となることがしばしばあった。クロアチア人はクロアチアを背後に抱えていたが、クロアチア国内にも少なくないセルビア人が生活していた(そしてクロアチアセルビアと紛争状態だった=クロアチア紛争)。ボスニア紛争は国家の独立に起因して発生したが、その国家は単一民族国家とは程遠く、国家VS国家の形をとりつつも、その内側は複雑な民族分布(民族対立)に満たされていた。 

 

第二次世界大戦の様な比較的色分けが簡単な戦争と言うのは評価も簡単である。歴史は勝者が作るという格言が示すように、その評価が資料を基に精査した時適正かどうかという問題はあるものの、陣営とそれが示すものが明白な戦争は善悪二元論で評価することが容易である。逆に、昨今のシリア内戦の様な各勢力が入り乱れた戦争においては、単純明快な評価を下すことは困難となる。ボスニア紛争は間違いなく後者に該当する。 

 

さてその様なボスニア戦争において、情報工作とも世論操作ともいえる活動を担った米国PR会社(ルーダー・フィン社)が存在した。PR(Public Relations)、日本でもなじみ深い言葉であるが日本語に訳すのは難しい。公的価値の創造とでも訳せるのだろうか。本来は、宣伝とか広告を意味するだけの言葉では無いらしい(単語を見ればそれは分かるが)。 

 

ルーダー・フィン社の活動とは何だったのか。それはボスニア政府と契約し彼等の正義を、セルビアの悪事を、分かりやすい色分けを構築することだった。クライアントは国家である。主要エージェントの名はジム・ハーフ。なんとこの男、クロアチア紛争でクロアチア政府と契約し、同様のお仕事をしていた。クロアチアの敵はセルビアボスニアの敵もセルビアセルビアを悪党に仕上げる。それが彼の仕事だった。 

 

本書は、ルーダー・フィン社およびボスニア紛争当時の関係者へのインタビューを中心に、当時如何にして「セルビアは悪党である」という世論が構築されていったかを、丹念に綴っている。PR会社の手口。新聞社を始めとしたメディアとのやり取り。政治家とのコンタクト。言葉選びから記者会見でのテクニック。敵のやり込め方。PRのノウハウ。彼等が行った事の是非は別にして、その鮮やかな手口は芸術的と言えるだろう。

 

敗れたセルビア側のPR活動も記載されていて、それはそれで興味深い。セルビア側が敗れた決定的要因の一つは、「強制収容所」の存在をすっぱ抜かれたからだ。いや、それが本当に「強制収容所」だったのかは問題ではない。一枚の疑わしい「収容所」の写真がナチスのそれをイメージさせる「強制収容所」と認識されればそれで十分だったのである。セルビア側のPRの敗北には内部の政治的なトラブルや米国コネクションの喪失など他にも要因があったのだけれども、「強制収容所」は悪党をイメージさせるに完璧な衣装となってしまった。 

 

強制収容所」とくればセルビアを「ナチスのようだ」と非難したくなるところだが、ルーダー・フィン社はボスニア紛争時、セルビアを非難するに「ホロコースト」という言葉を絶対に使用しないよう徹底した。ルーダー・フィン社には、クロアチア紛争時の仕事において「ホロコースト」を用いたところユダヤ人社会に不快感を示されてしまったという経験があったからだ。ユダヤ人にとって「ホロコースト」という単語は気軽に用いられるべき言葉ではないということだろう。著者の言葉を借りれば「ユダヤ人社会にホロコーストの犠牲者を冒涜していると受け取られる可能性があった」。本邦においても気を付けるべきだろう。そして「ホロコースト」の代わりに見出された単語が、ボスニア紛争を代表する言葉ともいえる「民族浄化」だ。 

 

民族浄化」という言葉の成り立ちも興味深いが(そこは本書を読んで確認して欲しい)、それと同じくらい興味深いのは著者が「民族浄化」という言葉を説明するに「Buzzword」という表現を用いていることだ。本書は2002年に単行本が出版されている(私が持っているのは文庫版)。2002年当時、Buzzwordという言葉が米国ではある程度一般的だったことに驚いた。SNSなんて影も形もない時代である。 

 

SNSの交流によってPRも新しい段階に入っていることだろう。近年で言えば、アラブの春からウクライナ紛争、ナゴルノ・カラバフ戦争までSNSは間違いなくPRの場として使われていた。PRと思わしき投稿を直接目にする機会もそれなりにあった。真偽不明の動画が何万回も再生され転載されていく。TRTだとかスプートニクの様な、若干不自然な日本語で書かれたソッチ系のメディアが検索結果に表示される。PRの主戦場の一つにインターネット、取り分けSNSがあるのは間違いない。この点はボスニア紛争時と異なった状況だろう。当時に比べ、特定方向への世論操作は困難になっているかもしれない。一方で、真相や悪事を「戦争の霧」の中に隠すのは容易になったかもしれない。 

 

人道に対する罪に問われ、戦争犯罪人として審議中だったミロシェヴィッチ大統領(セルビア共和国大統領)は獄死した。ユーゴスラビアの名を冠する国家はどこにもなくなった。ボスニア紛争終結から25年以上が経過した。本書で示されているPR技法も、一部では古臭いものになっているかもしれない。 

 

しかしながら学ぶべきは歴史にある。時間が経ったからこそ見えるものもある。国家が大きな事業を起こす際、それに対する社会の評価は「適正」なのか考えるきっかけを作ってくれる本書には一読以上の価値がある。情報過多が叫ばれて久しい今だからこそ、読む価値がある。是非手に取って読んで頂ければと思う次第である。 

 

 

余談:クロアチアについて

ユーゴスラビア紛争に触れるからにはどうしても言いたいことがある。クロアチアという国家はもっと非難されてしかるべきである。ユーゴスラビア紛争が激化してしまった原因の一つは、かつてクロアチアに存在したウスタシャという民族主義団体にある。ウスタシャは第二次世界大戦中、ナチスに協力しホロコーストに手を貸した。同時に、クロアチア国内のセルビア人を無差別に虐殺した。ヤセノヴァッツ収容所、セルビア人カッター。気軽に調べるのは全くお勧めしない。私の中でクロアチアという国は、アドリア海の美しい場所でも、ネクタイ発祥の地でも、サッカーの強豪でもなく、ウスタシャの国として認識されている。

宗教から離れたいときー宗教2世3世へのTips

前回宗教2世・3世について記事にしたが、あらためてTwitterを眺めてみると、以前に比べ宗教2世・3世のリアルな呟きが多いことに気付かされる。宗派を超え、多くの方が自身の生まれ育ち、親族の信仰に悩まされている現実。創価学会3世として、イカレタ宗教家族のもと気分の悪い人生を歩んできた私としては、所属は違えど、彼等が見たあるいは見ている光景と言うものがどの様であるか想像に難くない。 

 

参考になるかどうかわからないが、自分が選んだわけでもない宗教に悩んだ時に考えてほしいことを、自身の体験を基に書き示す。私自身、完全に逃げ切ったわけでもないし、多くの過去を引きずっているわけだが、考えること自体に苦しむことは以前に比べて減ったと思う。何かの役に立つならば幸いである。 

 

 

1.教義について-気にしても気にしなくとも良い 

所属団体の教義について、こだわりを持って研鑽するのも研鑽しないのも自由です。宗教2世が所属団体や信仰に疑問を感じたとき(疑問を感じるきっかけは様々だろうが)、離れたいと感じたとき、教義の否定、理論による教団への反論は必ずしも必要ない。もちろん、こだわりを持って研鑽するのも自由だ。一点重要なのは、教団や信仰から離れるのに理屈は必ずしも必要ではないということ。勉強するのが好きで理をもって決別したいと思うならば良いのだが、考えること自体が苦痛になったり自分の時間を奪うようならば「嫌なんで辞めました」「馬鹿らしいので離れます」で十分。納得させるべきは周りの信者でなくあなた自身の人生です。1000の理論よりあなたの1の人生を大切にしてください。仏典でも聖書でも指導者の言葉でも、それを否定することは宗教から離れる手段ではあっても目的ではないのです。 

 

 

2.体験について-今の感性を大事に 

2世3世の多くが、宗教から離れた体験(信仰的意味を持たせる必要のない体験)を持っていないので(私もそうでした)、所属団体信者の体験談に縛られることが多いのではないかと思います。必要なのは今のあなたが満足感を感じているかどうかです。自身の生き死にを受け入れることが出来そうか。今の人生の延長に幸がありそうか。私はもうどうにもならないくらい失敗したのですが、所属団体の理想とする体験談(プロット)に縛られて、その時々の自分の感情・気持ちを大事にすることを辞めてしまいました。それはかなりの損失として自分の人生に影を落としています。他人の体験談や教団が求めるシナリオでなく、あなたの今の感性を大事にしましょう。その上で、自分の体験談や他者の体験談を肯定するも否定するも、それは自由です。全てを肯定する必要も否定する必要もありません。私はどうにもならないくらい駄目になりましたが、その時々の感性を発露できるならば、自然と分別をもって個々の体験を否定も肯定もできるようになるでしょう。 

 

 

3.親族との関係について-経済的な自立 

おそらく、宗教2世が最も悩む案件の一つが家族との関係です。私みたいに、家族への愛情がほぼゼロの人間はある意味では葛藤せずに済むと思う(恨みは残るけど)。家族は愛しているけれど、信仰にはNoを示したい。しかしそれは喧騒の原因にってしまう……というケースは厄介だ。正直なところ、これに関して正解は無いと思う。家族愛は家族愛。信仰は信仰と。分離出来てうまくやっていける場合もあれば、どちらかが破綻してしまう場合もあるだろう。私の考えとしては、信仰を条件とした家族愛というのは無私の愛ではないと思うのだが、まともに人を愛する感覚がないので、私には分からない。ポイントは、経済的に自立すること。取り敢えず家族との距離を保たなければならないケース、今すぐ離れたい場合、それぞれあるだろうけれど、経済的に自立していればどうにかなる。難しいのは未成年の場合で、これが一番深刻なテーマとなるだろう。世知辛い話で申し訳ないが、現状この国では宗教2世が物心両面で逃げ込めるセーフティエリアは存在しないと思う。何とか上手くやり過ごして、いざと言う時に備えるしかない。自身の健康は前提条件にして、あなたが生きるために必要なのは、神でも仏でもなく資産です。卑下た話に聞こえるかもしれないが、明日を物理的に生き延びるためには祈りではなく福沢諭吉1枚で足りるのです。 

 

 

4.交友関係について-人はいる 

家族の次は友人関係。恋人は出来たことが無いので、結婚恋愛について体験談をもとにしたアドバイスはできないが。宗教2世の苦しみの一つに、ありのままの自分を表現し辛いこと、宗教への葛藤を相談できる相手が居ないこと、気兼ねなく付き合える友人を作り辛いこと、交友関係の悩みがあると思います。私の場合、布教活動と選挙活動でかなりの友人を失いました。また、感情表現の方法を学べなかったが故か、そもそも他人との付き合いに魅力を感じ辛くなってしまいました。しかし人はおります。日本に限定しても1億2千万人は人間がおります。あなたのことを受け入れてくれる人もどこかに居ると思います。無責任な発言の様に感じるかもしれませんが、私が申し上げたいのは以下一点「友人が欲しいという思いがあるのならば、友人が出来るまで人に会い続けるべし」です。合わない人、拒絶される人も出てくると思いますが、そうでない人にも出会えることでしょう。「友人が欲しい」という素直な感情がある時点で、あなたは比較的軽症です。自信を持ってください。そうでない場合、交友関係を持つこと自体に葛藤がある場合は、気長にやるしかありませんね。私もそちら側ですが、いつか変化があるかもしれませんし、そうでないなら孤独を住処にしましょう。どちらを選ぶも自由かと思います。 

  

 

5.健康第一 

何をするにも健康が第一です。人生に悩みは尽きないかもしれませんが、悩むことは目的ではないと思います。そういう職業(哲学者とか)を選択しているならば、多少は仕方ないと思いますが。信仰自体があるいは宗教団体に所属していることそのものが悩みであるならば、それはあなたの健康を害していると言えます。私もそうでしたが、信仰に執着したが故に心を壊してしまうことがあります。そうなる前に離脱しましょう。 

 

 

6.後悔について-短気を起こさない 

希死念慮に苛まれている私が言ってもあまり説得力はないかもしれないが、短気をおこさないこと。後悔は消えないかもしれない。もし宗教なんかに触れることが無ければ、もう少しまともな家族だったら……後悔は消えないかもしれない。振り切れる人もそうでない人も居るでしょう。だとしても、短気を起こさないこと。折り合いをつけて、残りの人生を生きる。私の場合、普通にはなれないことを従容として受け入れてしまったように思います。諦めたといいますか、自然現象を否定できないように、太陽や月の存在を認めるように自分の生い立ちを認めつつあります。 

 

 

どうにもならないこともあると思います。私自身、どうにもならない影を背負って歩いております。心が揺れ動くこと、不安定になることもあるでしょう。必要ならば医療機関に行くのも良いでしょう。私は認知療法に半年ほどお世話になりました。ただ短気を起こさず、まずは今日明日を生き抜いていくしかないのかと思います。どうかご無事で。 

 

宗教2世・3世の問題について

宗教2世・3世の話題が、主要メディアにおいてもチラホラ取り上げられるようになってきた。もう何年も前から、SNS上では宗教2世・3世同士のゆるーいネットワークが形成されてきたが、社会問題としての認知度が向上しているのだろうと思う。差別に甘いと言われる本邦だが、それでもかつてに比べ、LGBTQへの配慮の向上、性差別と思わせる発言へ適切な批判がされるなど、ここ数年で弱者やマイノリティーへの対応は改善された部分もある。宗教2世・3世の問題が注目されはじめたのも、そういう流れの一貫だろうか。あるいは、将来の宗教勢力の凋落に向けた布石だろうか。 

 

私は創価学会の3世会員である。ブログで何度も記してきたが、イカレタ宗教家族のおかげで碌でもない人生を歩んできた。宗教2世・3世が感じる苦しみと言うのは、分かっているつもりである。創価学会の場合、会員数が多いのでそれに比例して被害者も多く、似たような経験をしてきた人物が集まりやすい。宗教2世・3世のフィールドにおいては最大手だろう。創価学会の場合、政治力がチラつくからか、主要メディアが取り上げないという他団体との決定的な違いがあるが、人数でいけば一番多いのは間違いないだろう。境遇の共有・ネットワークの形成と言う点においては、まだマシな方かもしれない。 

 

令和2年度の宗教年間によれば、日本の宗教法人数は18万件。もちろんその中には、同一宗派にカウントされるものもあるから、18万団体すべてが独立しているわけではない。ただ、聞いたことも無いような宗教団体が多数存在するということを忘れるべきではない。宗教2世・3世の話題で名前が挙がる団体と言うのは、割とメジャーな団体なのだ。創価はもちろんだが、エホバとか幸福の科学とか統一教会系。GLAとか真如苑なんかも見かける口だ。宗教法人ではないが、ヤマギシ会なんかも話題に上るように思う。 

  

宗教2世・3世の全員が不幸になるわけではないし、社会への疎外感を感じるような生活を送るわけでもない。現に最大手の創価学会にあっては、俗を謳歌する俗集団を幾らでも見出すことが出来る。宗教2世・3世が苦しむ原因は様々あるだろうけど、簡潔に言えば適切なリソース不足で説明が足りると思う。教団へのお布施や宗教活動における散在が子供への投資を損なう。教団の教義によって子供への教育が歪んだり不足する。金銭の様な目に見える形での資産、教育という目に見えない資産。その片方あるいは両方が不足することによって、成長を抑制されてしまう。もちろん、本人が生まれ持ったスペックや環境(同じ信仰を持っていても年収や学歴による格差は当然生まれる)も影響を与えるが、人生全体へのデバフに変わりはない。 

 

人間をモノの様に評価することに違和感や嫌悪感を感じる人も居るだろうが、私が創価の世界で見てきた経験知からすると、大体上記内容で説明がつく。親が活動家だったり、地元組織の幹部だったり、活動の拠点を提供していたりすると不幸になりやすい。本部職員の子供は、人によるところが大きくて、要領の良い両親に恵まれると割と普通に育つ。野良の地方幹部の家族とかが一番厳しい。公明党地方議員の子供とか、かなりリスクが高い。 

 

本人の能力でカバーできる部分もあるが、後天的な努力では覆し辛い部分(情操教育とかコミュニケーション能力)は如何ともし難い。イケ面とか美人みたいな、どこでも通用するカードを持っていれば、デバフの軽減に役立つだろう。創価大学で見た範囲で話すと、今の創価学会で幸せになれる人は、創価をやっていなくともある程度報われる要素を持ちあわせている。格差社会の上側に立つ人物だった。おそらく他の宗教団体においても同様のことが指摘できるのではないか。 

 

多くの先進国で信仰離れが起きている一方で、キリスト教原理主義の様な極端な信仰に勢いがあったりもする。世界的に見れば、人口増加地域の大半が信仰を持っているが故、信仰者の数は増え続けている。また、いずれはイスラム教がキリスト教にとって代わって、世界一信者の多い宗教になるだろうと推測されている。 

 

https://www.pewforum.org/2015/04/02/religious-projections-2010-2050/ 

 

個々の人生における意味合いは別にして、しばらくは、宗教というコンテンツとの付き合いは続くだろう。日本に限定することなく、宗教2世・3世の話題は今後ますます活発になると思われる。日本に限定するならば、道徳と言うこの国の宗教教育から外れた時点で異端者扱いを受けるので、特定の宗教団体の家に生を受けた時点で、ハンデを負いやすいと言える。かつての創価学会には、セーフティネットの提供・共同体への参加という役割(メリット)があったが、今は難しいだろう。他団体も同様だ。 

 

宗教2世・3世の問題も、結局は格差の問題だと思う。それは計測しやすい「経済資産」というパラメータだけでなく、「文化教育」という一見わかり辛い部分における格差を含んでいる。特に、人付き合いの基本みたいな部分を削がれること。これは経験者にしか分からない辛さだと思う。私は子供時代、友達と一緒に神社のお祭りに行けなかったことを、今でも辛いと感じる。選挙や折伏で素直な人付き合いのチャンスが消えたこと。公明党を支援するために休日を潰したこと。創価を意識して素直な自己表現が出来なかったこと(小学校くらいからかな)。大きなハンデになったと感じている。 

 

経験者から言わせてもらうと、パッと解決できるような妙案はおそらく存在しない。認知療法を半年間くらい試してだいぶ楽にはなったが、根本的なハンデが解消されるわけではない。苦しいままの人生が続いていく。稼げるようになるまで生き延びれれば、まだチャンスがあるかなって思う。経済的に独立できれば、不要と思うモノを切り捨てることも可能だ。それにしても生き辛さは消えないし、奪われた可能性も帰ってこないのだが。 

 

建設的な話をすれば、宗派を超えて宗教2世・3世で苦しんでいる者がたむろできる場所を幾つも構築していくことが、まず一つのステップになるだろう。リアルでもいいし、オンラインでもいいし、その両方でもいい。ゆるくてもいいから居場所を作ることだ。その点、SNSは便利なツールだと思う。冒頭で述べたように、既にそれは形成されつつあるが、今後もドシドシやるべきだ。ゆるく沢山。逃げ場を幾つも形成することが重要だと思う。生き延びないことには、未来は無いのだから。

恩師逝く

恩師が亡くなった。正直、突然の訃報で実感がない。もっと長生きして、自分の人生を謳歌すると思っていた。周りの人を振りまわすのが得意で、癖がありつつも、みなに愛される人物だった。90歳くらいまで、好き勝手やりながら生きるものだと思っていた。孫の成長を見ながらダラダラ生きてくものだと思っていた。 

 

以前記事にしたが、恩師には愛憎こもごも、アンビバレンツな思いがある。 

 

 

大学恩師からの便り - 狂気従容

 

そうであっても、二度と話せないと思うと感慨深い。あの男も死ぬのだ。人間、誰しも死ぬのだということを知った。あの人が居なければ、私は22歳で自殺していたと思う。あるいは生きる場所を失って、公共の敵(Public Enemy)になっていたかもしれない。 

 

創価学会に、創価大学に人生を賭けた男だった。それは間違いない。1950年、戦後まもない世界に生を受け、草創の時代を生き抜いてきた。学生運動華やかなりしころ、その正面に立って時代の本流に身を置いてきた人。左翼も右翼も命を懸けていた頃、創価の看板を背負って、時代を作ってきた人。あの人が影響を与えた人は、1000人単位だと思う。 

 

私が知っている創価の裏話の大半はあの人に伺ったものだ。私の生まれ育ちがもう少しだけまともなら、自分の力である程度普通の人生を築けただろう。それは仮定の話だが、あの人に創価の真相を聞かされることが無ければ、one of them 、自他の分離もままならない無価値な俗物として生を終えただろう。30年前ならばそれでも幸せだったかもしれないが、2021年はそれを許さないのだ。 

 

あなたには恩がある。それは事実だ。あなたが居なければ、私は多分死んでいた。あるいはテロリストになっていた。八王子中野町で死んでいたと思う。分かっている。だが、あなたの振る舞いの全てを肯定することは出来ない。晩年、あなたがもう少し進取に富む人物だったら、私もあるいは他の何人かも、もう少しマシな人生を歩めたことだろう。だが今更それを言っても詮無きこと。私にとっても、あなたにとっても、意味のないことでしょう。 

 

壊れた創価家族に生まれ、何が悪いと言えば生まれ育ちが悪い以外の答えがない人生でしたが、貴方に会えたことの意味を、未だ見出せずにいます。 

 

世話になった。助けられた。色々教えて貰った。それは事実。振り回された。手助けをした。 肩代わりをした。それも事実。上手くいかないことがあった。最後は喧嘩別れに近かった。次会うことは無いと思った。死別するとは思わなかった。好きなように余生を歩むと思っていた。 長生きするだろうと。 

 

職員に睨まれ、学長に睨まれ、本部に睨まれ。反抗したのではない。ナチュラルな振る舞いがお気に召さず、ド天然で人を巻き込むのが得意でしたね。付いていった私は馬鹿だったかもしれないですが、あなたに表裏がないことは確信をもって断言できます。 

 

多くの話を聞かせてくださいました。きっと、墓まで持っていった話もあるでしょう。話す気が無いエピソードもあったでしょう。あなたから聞いておきたかった話もありますが、ねだっても披露してはくれなかったでしょう。肝心なこと、私のことをどう思っていたかを直接正面から聞きそびれたのは少し残念です。 

 

晩年、私生活で様々あったのは承知しております。私としても思うところはありますが、ただただ、悔の無い満ち足りた晩年であったことを願うばかりです。最後に会ったのは、2019年でしたか。八王子での、甘酸っぱい記憶を思い起こさせてくれましたね。 

 

あなたのことをどう評価するか、それは人に因るでしょう。好きにさせるがいいと思います。私自身、どう表現していいか分からない部分があります。 

 

しかしながら、あなたの最期をして「仏法の因果は厳しい」などと放言する輩が居たならば、私はそいつを八つ裂きにするでしょう。お約束できます。どうか苦しまず、後悔の無い臨終であったことを願います。