狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

創価学会の教義問題(日蓮と平和主義)

以前にも指摘しましたが、日蓮の残した文章にはかなり過激な文言が残っています。

 

建長寺寿福寺極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」 撰時抄

 

「涅槃経の文無くんば如何にしてか之を救わん亦涅槃経の先後の文の如くならば弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は先世の四重五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給う」 守護国家論

 

撰時抄には真筆が現存し、守護国家論もかつて身延に真筆が存在していたと言われる信頼のおける文章です。日蓮という人物は、積極的な殺生や殺戮を推奨しないまでも、武力行使そのものは否定しない人物でした。

 

日蓮自身、護身を目的に帯刀していたと推測されています(あくまでも推測です)。日蓮と刀に関する文献としては、「善悪二刀御書」がありますが、真筆は存在しないようです。身延に入山する際に「数珠丸」と言う刀(重要文化財)を護身用に所持していたとされていますが、日蓮自身が遺文で言及したりはしていません。

 

直弟子の日興は日興遺誡置文において、

「刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。
 但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事」

と残しているように、正当防衛 (仏法守護)の為の武力行使を肯定しています。

 

池田名誉会長はスピーチの中で該当する日興遺誡置文を以下の様に解説しています(1992年、関西最高会議でのスピーチより抜粋引用)。

 

「この条目について、日亨上人は「ある一時的のもので、戦国時代物情騒然たる時の自衛のための武器である」と仰せになっている。私どもは「仏法守護の為」と記された日興上人の厳たる御心を拝さねばならない。いかなる危険な状況のなかでも、「仏法を守る」ためには命を惜しんではならないのである。その意味で、社会の荒波に身をさらし、広布開拓の最前線で、大難を受けながら、仏法を守り抜いてきた学会こそ、この御遺誡の心の実践者なのである。反対に宗門は、学会の「仏法守護」「外護の実践」に甘えに甘えて、腐敗した。「仏法守護」の心など、かけらもない。あるのは「保身」だけである」

 

「刀杖等に於ては仏法守護の為に之を許す。但し出仕の時節は帯す可からざるか、若し其れ大衆等に於ては之を許す可きかの事」

という文章から、

「いかなる危険な状況のなかでも、「仏法を守る」ためには命を惜しんではならないのである。その意味で、社会の荒波に身をさらし、広布開拓の最前線で、大難を受けながら、仏法を守り抜いてきた学会こそ、この御遺誡の心の実践者なのである」

という解釈を導き出すのは中々に無理があるのではないか。

 

日蓮、日興の思想を「鎌倉時代の日本」という時間・空間的な制約によって生じたものとして現代風に解釈することも出来ますが、限度があります。更に言えば、時間・空間的な制約を理由にしてしまうと、時代や場所に依存して「平和思想・平和主義」の解釈が変更され得ることを認めることになります(今の創価学会には都合がいいかもしれませんが)。

 

そもそも、平和思想、平和主義に比重を置いて思想を展開するならば、敢えて日蓮(場合によっては法華経)に拘る必要がありません。池田名誉会長は日蓮(と法華経)を一般化、現代化させる過程で、「人間主義」「平和思想」との融合を進めましたが、「人間主義」「平和思想」を最重要視するならば、日蓮固執する利点は特に無いのではないか。700年以上前の人物の思想を現代風にモディファイすることに、組織防衛以上の価値があるでしょうか。

 

私は特に、日蓮に信仰的な価値を見出している人物が、平和思想を推進することを否定しているわけではありません。私が言いたいのは、敢えて両者をリンクさせる必要は無いのではないかということです。

 

日蓮と平和思想をどう両立させるかと言うことに、これといった解答を提示できませんが、変に解釈を曲げてまで日蓮に平和思想を求める必要は無いのではないか。日蓮(とその先に法華経、その他経典)の21世紀における価値を、現代的な思想との迎合によって成し遂げる必要性は特にないでしょう。

 

もっとも、安全保障問題における公明党の政策転換(自公連立以前から)を見るに、池田大作公明党支持者たる創価学会員の平和思想とやらが、根拠も信念もビジョンも碌に存在しない、選挙対策や教団アピール用のお飾りだったのだろうとも思ったりします。

 


補足
池田名誉会長のスピーチ部分は、冊子に印刷されたバージョンを所有していますが、非売品です。池田大作全集に収録されているかどうかは把握しておりません。