狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

使い古された言葉ー創価学会の元ネタ

日蓮主義の文化的研究」というタイトルの書籍がある。1921年、大正時代の本だ。国立国会図書館のデジタルコレクションで誰でもオンラインで読むことができる。以前に少し紹介した。

 

価値創造と日蓮主義 - 狂気従容

 

その中で「価値創造の哲学 一念三千の意義」という章が設けられていたりする。上記記事でも紹介したが、「価値創造」という「創価学会」の元ネタともいえる用語は、牧口常三郎のオリジナルではないそうだ。「創価教育学体系」が出版される9年前、牧口の日蓮正宗への入信7年前に、「日蓮」をテーマにした書籍で「価値創造の哲学」という単語を用いた人物が存在したことは記憶していいだろう。

 

 「日蓮主義の文化的研究」から感慨深い記述をいくつか紹介する。言葉は同じであっても(あるいは類似していても)、今と当時では意味する内容・範囲が異なったりするので単純比較は出来ない。切り抜いた言葉を紹介するので、本来ならば前後の文脈から比較検討する必要があるだろう。それにしても、1921年出版、100年前の書籍であることを考えると……感慨深い。尚、紹介内容への賛同を表明している訳ではない。以下「日蓮主義の文化的研究」から引用。

 

「喚び出された佛性と佛性とを以って一切が宇宙の中心生命に同化するのだ」162ページ

「題目は個体の生命が宇宙生命の中心に向かって同化の電流を通ずるその送電装置に外ならない」160ページ

「故に狐や狸を本尊として拝めば、その本尊と個體生命との同化関係の結果は個體生命を狐に同化し狸に同化することになる」129ページ

 

 池田大作は「法華経智慧」の中で「大宇宙即御本尊ということであり、南無妙法蓮華経の生命は、久遠以来、大宇宙とともにあるということです」と戸田城聖の本尊観を肯定的に用いている。「題目こそ宇宙の根源のリズム」とも。生命という単語自体が、大正当時の流行だったのかもしれない。それにしても、何処かで聞いたことがあるような言い回しだ。既視感のあるフレーズや言い回しはいくつもある。

 

以下、「日蓮主義の文化的研究」から引用。


「過去の宗教は僧侶という専門家の手によって、文化と民衆の生活とから引き離されてしまったのである」110ページ
日蓮聖人の思想のように清新の意義と力とに充ちた文化運動を、徒らに法門家の手にゆだねておくということは人生国家の損失であって」110-111ページ

 

 在家・在野研究者VS出家・専門研究者の構図は相変わらずかな。職業研究者であっても、日蓮で学位を取得しているとは限らない。まぁ最近は在家同士のバトルー痴話喧嘩レベルのーの方が盛んかもしれない。在家が能動的なのは日蓮系の特徴だと思う。また、教義よりも実生活に重きを置く。これにはいい部分も悪い部分もある。専門家に依存しないことと、専門家の手法(文献や統計データの利用)を軽視することは混同されやすい。生活は特に宗教を必要としないこともある。

 

以下「日蓮主義の文化的研究」から引用。

 

「道徳でも政治でも、その個人生活集団生活を改造しようとするその改造の目的は一口に言えば平和である」133ページ

日蓮聖人の宗教的主張と運動の中で、世の人が一番解釈に悩んでいるところは、聖人が純宗教家としていわゆる生命の第一義の問題にばかり触れていないで、盛んに、俗の世界へ踏み込んで、社会革命家の如く又政治革命家の如き主張と運動をもっていられたことである」142ページ

 

 日蓮主義者から「平和」とは非常に違和感あるが、当時(1921年)の人が述べるところの「平和」と今の「平和」とは違うのかもれしない。もっとも、100年後に自称日蓮直系団体の平和運動に頭を悩めることになるとは著者も想像しなかっただろう。俗の中に入っていくこと、現場に向かう事が話題になるのも変わっていない。800年前の男の解釈に100年使って何をしたのだろうかとも思う。

 

俗な言葉で安直に言えば、創価学会の元ネタの一つに数えられるだろう。