狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

好奇心は猫を殺すが、無関心は人を殺す

年明け早々、休日出勤だった。心休める日が1日減るだけで、かなりしんどい。希望も目標もない。熱意を傾けることができない。このすり減るだけの日々が、仕事or酒を飲んでタバコを吹かすだけの日々が後、数十年続くのかと思うと、いっそのこと……と投了が頭をよぎる。

 

夢を追いかけていた頃に比べ収入的には安定したが(無職の頃と比較するのはナンセンスか)、心が全く安定しない。もともと不安定だったが、人生の先が見えた分、悪化した気がする。「将来にたいするぼんやりとした不安」とは言ったものだ。私の場合、生活のための労働に、苦痛に耐えたのちの孤独死という、はっきりとした不安であるが。

 

どうにか切り抜けないといかん。5月までが勝負と記事にしたばかりだ。時間を稼ぎ生き延びれば、普通の人生(結婚して子供を持つ)は無理でもーイカレタ家族の中、まともに人に愛されたこともないので、結婚のイメージも家庭をもつ感覚もないがー何か掴めるかもしれない。

 

「好奇心は猫を殺す」という言葉がある。猫を殺すのは好奇心かもしれないが、人を殺すのは無関心だ。信仰心や忠誠心も、だいぶ人を殺してきたと思うが、一番は無関心だろう。

 

誰かが不幸になる。仕方が無いねで死んでいく。矛盾や格差が放置され、ルール違反が常態化する。間違いはあるかもしれない。失敗やミスもあるだろう。問題は、それが改善されないことだ。そして、見て見ぬふりをすることだろう。

 

行き詰った社会は、人が死なないと変わらないのだろうか。変わるには、何人死ねばいい?無関心の積み重ねは、その必要人数を、増加させる。ナチだとか戦前の日本だとか、そう大げさな例えを持ってくる必要はない。自分の会社で何人鬱になって辞めたか、同級生で自殺者はいないか、数えながら考えればいい。世相は明るくなったかと。誰かが不幸になっても、社会は変わらない。改善しない。それを続けて、どこに行きつくのかと。

 

私の場合、狂った創価家族に生を受けたがため、やれ選挙だ信心だと、政治や宗教に、現代社会に興味を持たなければならなかった。生きるために、無関心でいることはできなかった。社会の、一人一人の人生に関心があるかと問われると、恋人も親しい家族もいないが故、難しいが。

 

コロナ禍で、不幸になる人ならない人、色々だろう。何度か呟いたが、私はコロナの影響を受け辛い業界にいる。給与という点では困らないと思う(長期的視点は別ね)。

 

コロナでそこまで困ってない人もいるだろう。だが、無関心の積み重ねは、いずれ大きな災禍となって、社会を揺るがす。自分がそこに巻き込まれるかどうかは運ゲーの要素が強いが。

 

今、格差や矛盾を、誰かが不幸になることを、他人事と放置することは、ゆっくりと自殺しているようなものだ。「私は困らないし、資本主義自由競争の下、誰かの不幸の上に自分の生活を築くことは当然」と開き直るのであれば、「他人の人権は嗜好品でした」というコンセンサスを社会で形成するというのなら、反動としての暴力は免れないだろう。「基本的な人権の尊重」を放棄するわけですから。

 

無関心は人を殺す。忘れないようにしたい。私の場合、まずはどう自分が生き延びるかだ。生きないことには始まらない。