狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

私観みなぎる回想(国防議論とかその辺)

ウクライナ危機に台湾有事、最高額を更新し続ける防衛費と国防議論を加速させそうな話題がチラホラ見受けられる昨今。私観100%で国防議論とかの流れを振り返りたいと思います。まぁ言うて私の年齢的に2000年以降に限定されますけれど。

 

第二次世界大戦敗戦後の我が国では、軍事関連をひっくるめて臭いものにしてしまったので、まともな議論がされぬまま、冷戦時代を過ごすことになりました。その是非はここでは問いません。何が言いたいかというと、冷静な国防議論なく、一応の平和を謳歌することに成功したということです。日本海と太平洋の防壁、日米安保核の傘、事実上の被占領地である沖縄の犠牲によって、それは可能だったと私は考えています。

 

冷静時代を他国に比べ相対的に少ない軍備で過ごし、また徴兵制の早期廃止が実現したことは、経済的な成功を収める一因となったと評価できるでしょう。特に徴兵制の早期廃止は、若年層の教育および就労に関する時間的な制約を取り払うので(例えば2年間の徴兵とは18歳の青年を学問にも労働にも役立ち辛い環境に2年間拘束するということ……それも税金で)、他の先進国に比べ有利な点になったでしょう。

 

しかしながら、冷戦終結と同時に環境ががらりと変わります。米軍の縮小、湾岸戦争PKO北朝鮮のミサイル問題、不審船、9.11テロ、そしてイラク戦争対テロ戦争、ロシア軍の再興隆に中国の台頭。日本経済の行き詰まりに格差貧困の拡大。目まぐるしくかわる国際情勢に悪化する国内。冷戦時代のツケを払う時期が来たと言えばそれまでですが、これまでの様にはいかなくなったのです。

 

先述したように、我が国では軍事関連は臭いもの、つまり「喰えない分野」だったのでまともな研究者や評論家の育成をすることが出来ませんでした。その数は全くのゼロで無いにしろ、左右どちらのイデオロギーにも振れず、歴史認識固執することのない、国防議論のスタンダードになるような人材群を構築することに失敗しました。

 

旧来のメディア、新聞とテレビですね、罪深いと思います。戦争反対と日本凄いを連呼するだけで飯が食えるなら、それは楽かもしれないですけれども、思想性によらず同根かなって思います。朝日と産経、君らのことだよ。

 

丁度、インターネットの発展と国内外の情勢変化が被ったものだから、若い世代の反大手メディア指向とポスト戦後論者(特に左派への)への忌避感がバッティングして、現在の「若年層の右傾化」と評されるような状況を構築する一助になったと、セーラムは考えています。

 

まぁもっとも、生まれてこの方自公政権という世代が増える中、若年層の投票率は相変わらず低い状況、人生に不足ない人達は自公政権を陰に陽に支持し、これまでの日本人と同じく防衛議論には大して興味をもたず、結果的に泥縄式に増加していく防衛費を容認しているという向きもできます。こっちの方が主流かな。

 

小林よしのり氏が「戦争論」とか出版したころ、テポドン騒動があって不審船問題があって、イラク戦争があった頃。インターネットもADSL接続が伸び始めた頃。ネット上では、リアリズム・国防論を展開するサイトがじわじわと増えていました(旧左翼への反動だと思います)。現在、SNSやWEBメディアで活躍されている軍事ライターさんの何人かは、この辺の環境から育っています。ブログサービスの普及も大きいですね。20代から個人ブログをやっていて、そこから有名になったライターさんもおります。

 

インターネットの登場でより簡単に資料収集とその評価が可能になった時代。テクニカルな専門知識に乏しい旧来論者を手軽に「論破」することが可能になりました。司馬史観とか半藤一利みたいな人物に突っ込みを入れるというか、福島瑞穂議員みたいな人物の無知をネタにしたり、まぁ産経新聞も随分ネタにされましたが。

 

インターネット世代の論者の多くは、テクニカルな話題を扱うことに慣れています。旧来の論者がイデオロギー色が強かったことに比べ、その部分は少なく(日米安保の容認と歴史問題の忌避が軸にあるんですが)、例えばオスプレイの運用方法だったりイージスアショアのスペックだったり、具体的な議論に長けています。揚げ足取りとも評されかねませんが、出自が旧来論者の間違い探しから始まっているので、自然なことだと思います。

 

どこかの分野と似とります。

 

それはさておき、これからの防衛議論の主流になるー話題の中心になるーのは、先述のWEBメディアで育ってきた人達でしょう。専門的具体的な知識が豊富にあり、背景には日米同盟の保持とイデオロギー歴史問題の回避が暗黙の了解として横たわっている。道義的思想的な味付けの薄い人達。

 

ひろゆき氏に代表されるような「論破文化」ですけれども、おそらく防衛関連、歴史議論関連においても、旧来論者へのツッコミという観点から「論破文化」が発展してきたかなと思います。専門家の養成を蔑ろにし、イデオロギー、抽象論で押し切ってきた分野は脆いですね。んー耳が痛いだろう某界隈。

 

最近流行りの「事実ベースで議論」なんですけれども、場がある程度成熟していないと単純な「現状是認型」になるので、いきなりの運用はお勧めしないですね。分かりやすく言うと、諦めや切り捨てを簡単に認めがちということです。小学生が「事実ベースで議論」したら「○○君の家は貧乏だから」「○○さんはテストの点数低いから」の先に、「××でも仕方ないよね」って続くと思うんですよ。「○○だけど△が目標だから□を試してみたらどうか」という建設的な議論が可能になるのはメンツの成熟が必要かと。

 

専門的な議論が深化していくことは素晴らしいことだと思うのですが、「国民主権」「平和主義」「基本的な人権の尊重」という我が国の三大指針が損なわれるような状況が仮に発生したとしたら、枝葉末節を議論しても意味は無いのかなって思ったりします。

 

強引にまとめますとね、ミリオタが左翼と極右を史実に基づいてネタにしていたら、一般人が論破文化の下にミリオタも引くくらいに方針転換しているということです。