狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

八王子学生部の思い出


 Twitterで学生部時代の話をしたからか、恩師が亡くなって1年とちょっとが経ったからか、何となく八王子は学生部時代のことを回想している。ノスタルジーに浸っているのかもしれない。抱いた夢が叶うことも無く、周囲に溶け込むことも無く、当時の交友関係も途切れて久しい。ただ、今思い返せば私は社会運動の一部として機能し、今話題になっている幾つかの事象の当事者だったのだろうなと、そんな感慨にふけこんでいる。私はきっと、誰に看取られることも無く画面の端の方であっけなく死ぬモブだ。だが間違いなくそこにいた。

 

 私が八王子にいたのは2000年代は中頃から2010年代の中頃まで、10年近くの歳月を八王子で過ごした。創価学会の組織としては、学生部と男子部を経験した。男子部時代は、サボタージュしていた部分があるので活動の記憶が少ない。情報収集がてら会合に参加したり、職員連中に話を聞くことはあったのだけれども、活動家と呼べる程の活動をしていなかったと思う。学生部に比べ男子部はつまらないと感じていた。男子部の活動は仕事じみた部分があった。

 

 心を病んで自分の人生に気付き始めたことも活動から離れた理由の一つだ。学生部の後半で病んだおかげで男子部組織から逃げれたとも言える。もっと早く、自分の本心に向き合えていれば”厄介者”として弾き飛ばされていたかもしれない。私が男子部時代、彼等に従ったのは(あるいは従うふりをしたのは)、罰が当たるかもしれないという恐怖心と、この組織で生きる必要があるという思い込みが大半だった(功徳込みで従った方が都合がよいという打算だ)。ある意味では、彼等に対し真摯に向き合うことが無かったのかもしれない。フリーハンドで話が出来る今となっては、無用なトラブルは避けるだろうが、一線を越えるならば絶縁するつもりで臨むことになるだろう。臨終ただいま即身成仏である。

 

 断っておくと、男子部組織に温かさが無かったかと言えばそうではない。私がたまたまそういう場所に所属できたのかもしれないが、適当にゆるい部分もあった。学生部に比べ上からの指示に対する拘束力は強かったと思うが、世話になった人達は優しかった。地雷不発弾と化した私を刺激したくなかったのかもしれないが。組織としては難しかったが、個々においては自由に話ができたし、それで通報されることも無かった。また追加で補足すると、従来通りのハードパワーでガチガチに締め付けても選挙に勝てなかったことから「これからは変えていこう。厳しくやっても駄目だったじゃないか」ということを話す部長もいた。

 

 学生部時代においては、内容の浅深は別にして組織内でも割と自由に話が出来た。私自身の中に、罰の恐怖心や出自に対する諦めは確かにあった。それでも、自分の不良品具合を考慮しても、男子部時代より居心地が良かった。それが学生という身分に由来するものなのか、組織の変化だったのかは分からない。恐らく両方だろうか。

 

 私が八王子で生活し始めた頃というのは、自公政権が成立して数年が経ち、自民党の反創価学会色は薄くなっていた。一方で、共産党はハード路線の末期、週刊誌はまだ元気、山崎正友氏も存命、もちろん日顕氏も存命と、学会組織はそちらの方面を意識していた。学生部もその中にあった。

 

 私は7歳前後で選挙の応援演説に連れていかれ(家に誰もいなくなるから)、選挙となれば一家火の玉、朝晩の勤行をしないと生活できないという家庭に生まれ育ったので、政治に関心がないとか、学生部の拠点闘争で勤行が分からないという人物を見るのは衝撃だった。ただ、性根の悪い奴にあまりかち合わなかったおかげで、学生部の同期に悪い感想を抱くことは無かった。

 

 さて、2000年代の創価学会共産党日蓮正宗を主敵として捉えていたわけだが(今もですけれど)、当時はまだ学生部内に自民党の反創価学会キャンペーンを体験した人達、その人達に育てられた方々が在籍していたので、打ち出し遂行にまい進する脳筋幹部はいつものこととしても、自民党を信頼している人はそんなにいなかったと思う。主敵としての共産党と戦う。自民党は取り敢えず敵ではなくなった。そんな雰囲気があった。言い方は悪いけれど、たいして政治に感心を持っていないタイプの人物も「でも自民党は昔学会批判したんだ」ということを口にした。体験談として、あるいはそれをリアルフレンズからの伝承として知っていた。4者組織はもっと根深いものがあっただろうと思う。支持者の方が今の様に自公べったりではなかった。「共産党を勝たせてはいけない」と煽られることはあっても「自公で過半数!」という文句はなかった。少なくとも2000年代中盤、私の拠点闘争の記憶にはない。

 

 私が在籍していたのは、平屋のぼっとん便所を拠点(部長の下宿だった)とする東北出身者と北九州出身者を中心とした部だった。滝山寮生が多かった。当時の八王子学生部は今と違い、出身地域と統監で自動的に所属組織が決定されるシステムではなかった(私が八王子を離れる前後で変わったと思う)。人づてに紹介されて所属が決まるという、実にアナログな組織だった。

 

 学生部の活動は、定期的な拠点闘(ミーティングに近い)、グループ、部、区単位での会合、選挙が無ければ折伏、選挙期間中は投票依頼が主な内容だった。学内行事とタイミングが被ると色々と大変だった記憶がある。選挙の無い時の学生部は不思議な空間だったと思う。普通に生活していれば係ることのないだろうタイプの学友と拙い議論やクラスで一番可愛い子の話で時間を潰した。私がもう少し普通の人間だったら、彼等ともっと仲良くなれただろう。

 

 2000年代の学生部は割と自由だったと思う。政治に関する意見にしても、活動の内容的にも、咎められることは無かった。私は当時としては比較的右寄りの人間だったと思うが、それでどうこうされたことはない。選挙期間中、投票依頼はしないが題目だけはあげたいと拠点闘争に参加する男もいた。彼には公明党支援を明確に拒否しても居場所があった。

 

 私の部は特に自由で、幹部指導にスラムダンクが使われたこともあった(その是非はともかく)。変わり種の部長で、実家から折伏経典を拠点に持ち込んでいた男もいた。あれを当時知ったのは中々に衝撃的だった。折伏経典に出会ったのと、創大図書館の廃棄本配布イベントで戸田城聖講演集を拾ったことが、私の人生を大きく変えることになった。教義内容や学会の歴史に疑問を抱くようになったのだ。それはさておき、当時の学生部には自分の言葉で話す人が多かったように思う。スラムダンクで幹部指導した部長にしろ(ドラゴンボールを引用する人は結構いた)、折伏経典を持ち込んだ男にしろ、内容はともかく自分なりの工夫と自分の言葉を使う意思があったと思う。

 

 活動内容的に行き過ぎた部分はあった。通行人や商店の店員に投票依頼をする。選挙支援で通行人の連絡先を把握するために、イベント会場やゲームセンターで出会った人物と写真を撮って「写真を送りたいから連絡先を教えて」とか(これは他の部の話)。私も通行人への投票依頼には参加した。

 

 当時は選挙活動は20歳からだったが、未成年は未成年隊を結成して折伏に励んだ。選挙に主兵力を持っていかれる分のカバーという意味と成人組の選挙活動を鼓舞する意味があったのだろうと思う。選挙の無い時期よりも、選挙期間中の方が活動は過熱していたし、行動はファナティックでルナティックな部分があったと思う。ちなみに私が初めて参加した選挙活動は、投票当日に投票率をメールで報告することだった。当時私は未成年だった。八王子中の投票所に未成年の学生部員が一人ずつ割り当てられ、投票率を報告した。投票率の低い地区を把握する意味があったらしい。今考えてみれば、将来の活動家を確保するための儀式的な意味もあったのかもしれない。私が割り当てられたのはある小学校だった。1日中、グランドのベンチで試験勉強に教科書を読みながら投票率を報告したのを覚えている。

 

 転換点は2007年の参院選と2009年の衆院選だったと思う。とにかく選挙に入れ込むようになった。打ち出しに対する圧力が強くなった。学生部の体制が、3年生部幹部、2年生G長から、4年生部幹部、3年生G長に変化したのは2006年だったと思う。それまで、4年生は一部の区幹部を除いてはラインから外れ、活動家の中心は1~3年だった。単純に1学年分の人数が増強されたと言える。その当時の八王子の学生部長は他大出身のリベラルな方で、全体としては圧力が強まる中、ゆるい空気を残してくれたと思う。私個人もだいぶ世話になった。

 

 私は2007年に盛大に病んだ。大学を休んでいた。その時、連絡させてもらったのもその八王子学生部長だった。彼は本部職員として働いていたが、時間を作って会いに来てくれた。夜の11時過ぎだったと思うが、ドライブに連れて行ってもらい話を聞いてもらった。それで全てが解決したわけではなかったし、2012年に認知療法を受けるまで私のアップダウンは酷かった。その後も酷かったけれど。ただ、あの時に話を聞いてもらえたおかげで人生を続けられていると思う。

 

 星のよく見れる高台に着いて、色々話をしている中でたまたま恋愛の話になった。「勝負する時はここに連れてくるといい」みたいなことを彼は言った。私は「私に恋人ができますかね?」と答えた。彼は返答に詰まった。私の発言の意図は「恋人が欲しい」ではなく「私のような普通になれない俗を楽しめない人間にこの組織は必要か?創価学会で報われるのか?」という趣旨だった。それまでの会話で彼もそれは理解していたと思う。私はそれ以上切り込まなかった。安い返答をされるより正直に黙ってくれたのがありがたかった。彼も普通の家庭とは少し違った。彼からは私の経験したことの無いタイプの差別について学ばせてもらった。そういう意味でも感謝している。今あったら喧嘩になるだろうかと思いつつも、あの人とは本気の喧嘩をしたくない。

 

 話を組織に戻す。当時の民主党が中途半端な学会攻撃をしたおかげで、若い世代の意識には「敵は民主と共産」「自民は味方」という認識が広がったのではないかと推測する。民主党が監視しているからと、選挙の書類を会館で印刷しないようお達しがでた。信濃町の采配があったのかはわからないが、情勢不利の中で原田新会長のもと迎える選挙ということで焦りがあったのかもしれない。諦めつつも無謀な戦いを演じていた可能性もある。

 

 2009年の衆院選に関しては過去記事でも紹介しているが、選挙戦最終日に職員幹部が拠点を訪れ「大阪、いやー厳しい。後2000票足りない。誰か2000票くらい入れてくれないか」と話したのを覚えている。指導層は敗北を認識していたことだろう。2009年の選挙敗戦後の学生部に漂う空気は独特だった。目標を損失しふわふわしていた。試合に敗れ会場を後にして帰宅途中、自販機でたむろしておしゃべりをする。そんな雰囲気があった。遊んでいたというわけではなく、今後の方針について試行錯誤していたのだと思う。

 

 2010年には男子部組織に移行してしまったので、それ以降の学生部組織については後輩からの伝聞としてしか知らない。2010年に池田氏が表舞台から消え、2011年には3.11が起きて、その後民主党政権が自滅するように消え、第二次安倍内閣が発足した。その頃の学生部、創価大学生の印象と言えば「垢抜けた」「俗っぽいことを楽しめる人が増えた」という点が強いだろうか。特に本部職員。後、上からの指示に素直な人が増えた。変わり者が減ったと思う。それからしばらくして、私は八王子を離れた。

 

 学生部時代から感じていたことは、会員の多くは教義や政策論争にそこまで興味持っていないということだ(それでも2000年代にはこだわりを持っている人に出会えた)。彼等が魅力を感じているのは、有機的なつながりとしての共同体、かつて創価学会が日本のセーフティネットの一翼を担っていた時代の遺産だろうと思う。功徳を追いかけている部分も確かにあった(私にもあった)。選挙支援の有益性を説明するに、功徳が使われることもあった。しかしながら、彼等がそれを第一目的にしていたかと言えばどうだろう。選挙支援が為に遠出して、彼等が参加したのはダチに付き合うという感覚が強かったように思う。四者組織はまた違う。あくまでも学生部の話だ。

 

 宗教と政治あるいは宗教の社会的役割について議論することは有益だと思うけれど、構成員の多くには響かないだろうし、騒がれるほどには世間も注目していないだろうなと、当時の体験から考えている。私みたいな、世間からも創価からも外れてしまった人間からすれば、会員も非会員も似たように見える。

 

 本流にのれるかどうか。めんどくさいことに興味を持たずに済むか。俗の人生を楽しめるか。生活様式が一部変わるだけで大きな差異を感じない。私は今、弱小地方都市で生活している。住民の多くは地域の決まりとあれば本義など気にかけることなく催し物に参加するだろう。信仰の意図なく村の神社のお祭りにスタッフとして参加することと、創価の家に生まれて選挙活動に参加することと、どれほどの差があるのだろう。彼等に対し、「その神様は元々中国由来だ」「今の神道は明治政府の中央主権化がもたらした」などど言っても「それがどうした?」「俺には必要なんだ」「付き合いがあるから」としか返ってこないだろう。後は合うか合わないか、それは各人の出自に由来すると思う。

 

 最後の方は私の雑感だ。特にオチはない。暑い夏の日、八王子を思い出した。