狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

星の降る丘

紙は忍耐強いらしい。何を書かれても聞かされても怒らないからだそうだ。しかしながら、本当に忍耐強い点はその内容を誰かに漏らさない点にある。

横田基地のほど近く、ニュータウンと呼ぶにはいささか古い集落にM教授の家はあった。大学の教授が世間でイメージされるほどの高給取りでないことをSalemが実感したのはその時だった。「日本のサラリーマンはローン返済に追われるだけの人生ではないか」と自嘲気味によく話していた師の言葉はただのネタでは無かったのだろうとSalemは考えながら、ゼミ室にいつでもストックされている差し入れを思い出していた。

「狭いところだけど、まぁ上がって」

という教授の声に応じ、10年選手のオーパの横を抜けて門をくぐった。彼が師の家に招かれたのは初めてだった。日本中どこにでもありそうな2階建てのその家は、玄関の先に細長い廊下を通じて台所があり、横がリビング、そして仏間となっていた。地域の拠点として使われることを念頭に、あるいは、仏間を中心に間取りを決めたのかもしれなかった。

「荷物は適当にその辺において、まずは勤行をしよう」

Salemは-後に信仰心を失うことになるが-カバンを部屋の隅に置き、眼鏡をかけると数珠と教本を取り出した。

「用意がいいじゃない」

「いえ、昼の唱題会に参加しているので。セットで持っています」

日本で最も影響力を行使したかもしれない7文字を、教授の肩越しに唱えながら、Salemは不思議な感覚にとらわれていた。会合でも家庭訪問でもないのに他人の家で仏壇に向かうのは初めてだった。Salemは他者の信仰-大半の日本人は葬儀以外では宗派性のある信仰心を見せないが-に触れたのかもしれない。供えられている紙片は、その家の信仰を見届けてきた。おそらくは、晴れやかな日々も曇天の苦境も。数百年前の、元を辿れば2000年前の呪文が記された前で、どの様なドラマが繰り広げられたのかSalemは思いを馳せた。おそらくは無数の輝きがあるいは慟哭があったのだろうけれども、Salemの感想は雑念の多い俗物に相応しく<<一杯やる前にきちんとお勤めを果たすあたり、適当そうに見えて律儀な人だ>>というレベルのものだった。

20分ほどの時間が、いつのまにか変更された御祈念文と鈴の響きを合図に通り過ぎた。その時Salemが何を祈念したのか、本人も良くわかっていなかった。それは夢破れた街への怨嗟だったかもしれないし、愛憎あざなえる教授へのわだかまりを含んでいたかもしれない。あるいは、漠然とした再起を願ったのかもしれなかった。

「仏壇閉じるから」

そういうと教授は立ち上がった。この本尊を見ることはもうないかもしれない-実際には翌日、朝の勤行で対面するのだが-などと考えながら、Salemは仏壇が閉まるまで題目を唱えた。仏壇を閉じ終えた教授は、

「では飲もう。まずはビールでいいかな。僕は最近、直ぐにウイスキーを飲みたくなる」

と言って冷蔵庫のある台所に向かった。この切り替えの良さに、教授が慕われた理由の一つがあったのかもしれなかった。

「ビールで結構です」

「Salem君は、普段はキリン?アサヒ?うちはサッポロなんだけど。適当につまみも出すから、その辺の椅子に座って」

ギネスかバドワイザーのSalemにはあまり関係が無かった。教授に促され椅子に座ろうとしたSalemは、テーブルの玄関側に新聞が積上げられていたので、師はそんな細かいこと気にしないだろうと思いつつも、仕方なく上座に座ることにした。教授は冷蔵庫から黒ラベルを2本取り出すと、グラスと一緒にテーブルに置いた。そのまま新聞をかたすと、今度はウイスキーを持ってきた。

「手伝いますよ」

「いや、座ってて。直ぐ済むから」

チーズを皿にのせながら教授は答えた。適当なつまみがテーブルに並ぶ。準備が整ったようだ。

「何はともあれ飲もう」

「はい」

「お疲れ」

「お疲れ様です」

祝いの席ではないので2人とも乾杯とは言わなかった。よく冷えたビールが引っかかることもなく二人の喉を越していく。教授はサッとグラスを空にした。Salemが二杯目を注ぐと、

「ありがとう」

と言い、グラスをあおった。いつもながらに気持ちのいい飲み方だとSalemは思った。Salemには、教授のような人間には成れないだろうけれど、教授の様な酒飲みにはなれるかもしれないというふざけた志があった。

「そうだ。忘れる前に渡しておこう」

そう言って、後ろの戸棚から1枚のCDをSalemに渡した。

「餞別だ。ドボルザークの新世界。何はともあれ新天地だ」

「ええそうですね」

「船出が希望に満ちているとは限らないものだ」

「そうですね」

Salemはどこか他人事だった。暗澹たる先行きに思いを馳せたくなかったのかもしれない。それからしばらく、教授はありふれた言葉でSalemを励ました。平易でケレン味の無い内容で。多分に大事だったのは、話しの中身ではなく話し方だったのだろう。物語は覚えていなくとも、語ってくれたことは覚えている。そういう類の会話が続いた。ほど良く酒も回った頃、

「ええとにかく、何とか生きていきます」

「そうだ。生きていかなくてはね」

とやはりありふれた言葉でSalemは励まされた。

しばしの沈黙の後、ウイスキーを嗜みはじめた教授にSalemは問いかけた。

「M先生は今でもこの世界についていきたいと思いっていますか」

Salemには珍しく、ストレートな問いかけだった。Salemは続ける。

「大学、教義、組織、党。全てが変質した今でも。色々話を伺ってきましたが……」

教授はウイスキーの入ったグラスを手の中でクルクルと回すと、少し口をつけテーブルに置いた。

「僕らの世代は権力と戦うことを誇りに活動をしてきた。それを矜持に旗を振ってきた。今や権力に取り込まれ、あるいは権力そのものになってしまったが。それでも、僕達がやってきたことは無駄ではなかったと信じている」

教授は人生をなぞるように話を続ける。

「僕が大学に入学した時は、学内にバリケードが設置されているような状態だった。㋖の連中とやりあった。暴力は無かったけどね。僕の指導教官は、キリスト教徒から共産主義者に転向した人物だったが、係累の死をきっかに死生観をあらため、僕の話もよく聞くようになったよ。あの頃は、内外に人物がいたね」

Salemは何度か聞いたことのある話だった。

「色々あったが、大きく変貌したのは与党になった時だと思う。権力と鍔迫り合いしていた時はね、大学周辺に街宣車が乗り付けることもあった。いまでは考えられない」

教授は少し間を置いた。Salemは空になったグラスにビールを注いで、先を待った。

「教義に関して言えば、今言われているような文献学的な成果との矛盾は、とうに知られていたと思う。先生は熱海の研修場なんかで、教学に強いメンバーと一緒に遺文の解釈に関して研鑽をしていた。最近の教義改変に関して、ある国会議員の秘書が教学部長を説得しようとしたが動かなかったね。動いていた人達も、教義の内容よりも変え方に納得がいかなかった人の方が多い様に思う。中枢はアレの真偽問題にしても、ある程度把握していただろう。本部の立場としては、信仰の対象にはしないが真偽問題には立ち入らないというスタンスだがね。僕としては、それを信じて生きてきたわけだから簡単な話ではない」

「揺らぐものがありましたか」

「揺らぐというよりかは、ある程度の話は伺っていたから、向き合う日が来たという気分だった。だがそもそも、寺と離れて以降は様々な試行錯誤があった。二代の悟達をもって、当初からオリジナルの宗教だったと解釈する動きもあった」

「改変は既定路線だったと」

「そうだろうね。法華経研究会の書籍を追うとよくわかるけれど、触れたくない話題は巧妙に避けている。第一次の時点で、あらかた見切りはついていたのだろう」

「でもそれと学内への仕打ちは関係ありませんよね」

「関係ない。結局、物言う人物が邪魔なんだ。本部は教義改変に関し<<質問はするな>>と釘を刺していた。それに反した人物を粛清しようとした。標的になったのは副学長だった。大学を追い出せと迫ってきた。大学側が記者会見を開くと切り返したから、役職剝奪で手打ちになったんだ。彼等は統制できない人物を嫌う。安保にしても同じだ」

Salemには心当たりがあった。

イラク戦争のおり、国連研の展示に圧力がかかりましたよね。展示は行われましたが」

「あった。危険人物と目される学生を本部に通報した。イラク戦争に関係なく、学内では、独自の見解を述べるような教員の授業を勝手に録音するようなこともあった。学内における言論の自由は、担保されていなかった」

Salemも学内の不穏な話を先輩後輩から、また別の教員からも聞いていた。

「それは別の教員からも伺ったことがあります。有志の嘆願でそういう行為はなくなったとか」

「うん。だいたい、大学職員が通話記録の窃盗で捕まるような世界だ。大学と本部と、その関係は一様でないとしても、従わない人間が目障りなのだろう。独自の見解で学生を感化させそうな人物が。問題があると判断されれば“歩いていて背中に視線を感じる“ようなこともある。人材グループでも、そういうことがあったよ。教義改変の折には、一時家族も連絡が取れなくなるような人もいたらしい」

教授はウイスキーをグイっと飲みほすと、遠くを見るように話を続けた。

「最近は、安保の関係で混乱しているけれども、僕等が立ち上がった時は、日米安保の段階的撤廃を掲げていたんだ。それが少しずつ保守寄りになって……官僚主義とも戦ってきたはずなんだがね」

「やっぱり反対ですか?」

「目指しているものがどんどん分からなくなっている」

「私は、何人かの教職員に聞いて回ったのですが、<<先生がなにもおっしゃらないのだから>>というのが決まり文句でした。そういう問題ではないと思うのですが」

Salemが疑問に感じていたのは、特定課題への賛否ではなく意思決定プロセスだった。

「政治には妥協がつきものだ。だが政治家と妥協するな。そうよく言われたよ。さっきも言ったけれど、僕が学生だった頃は革新系の連中とぶつかることが多かった。食って掛かってくる奴もいた。だから、自然と議論を重ねることになった。お互いに本気だった」

Salemは、上り調子の日本をカリスマと共に駆け抜けた教授の世代がある意味では羨ましかった。

「僕は一度だけ、先生から直接声をかけられたことがある。その時言われたのは、<<学生を頼むよ>>だった。界隈の動向は関係なく、それが僕の出来ることだ」

教授の生き方は変わらないだろうとSalemは思った。それを否定する権利を持ちえないと彼は考えていたし、教授の生き様を好いていた。Salemが同じ道を歩むことは無いだろう。彼には彼の時代を生きる必要があった。「結局は時流に乗った団体だったのではないでしょうか」という問いかけが唇から漏れそうになるのを、Salemはこらえた。客観的な論評が、当事者を無神経に傷つけることを彼は嫌った。

「昔は、先生のもとにきら星のごとく人材がいた」

教授が呟いた。Salemはその星にはなれなかった。もっとも、彼はそんなことを望んでいなかった。彼は燃え墜ちる巨星が巻き散らかしたデブリのような存在だった。

「Salem君も、ウイスキーどう?」

「いただきます」

蒸留酒はラムかブランデーの口だったSalemには、苦みが残る一杯となった。その後も会話は続いたが、翌日にはアルコールと共にSalemの頭から抜けていた。Salemが目を覚ますと、教授がベーコンエッグの朝食を作っていた。朝食と朝の勤行を済ませるとSalemは教授の家を後にした。彼には何となくではあったが、もうその家を訪れることはないだろうという予感があった。下宿に戻る際、Salemには高台にそびえたつ本部棟が大きな墓標のように見えた。星の眠る場所に見えたのだった。

 

 

この物語はフィクションです。