狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

公明党の歴史(後編)

1970年までの公明党は、破竹の勢いで拡大する創価学会に支えられ選挙に勝利し続けました。強烈な信徒集団に支えられたフットワークの軽い新興勢力。しがらみが少ないという新興勢力最大の利点を生かしながら、急速に勢力を拡大していきました。

 

他政党をほぼフリーハンドで批判出来、支持本体母体(創価学会)は絶頂期。正直負ける要素がありません。公明党は、日本国内において確固たる地歩を固めます。1970年、言論問題とは公明党(創価学会)が名実共に日本の有力団体として認識される過程で払った通行税の様な物だったと思います。

 

言論問題は創価学会の出版妨害行動として注目されてしまいますが、言論問題が起こらずとも、いずれどこかで何らかの形で創価学会は日本社会からの「洗礼」をうけたことでしょう。


言論問題で幕を上げた1970年代。公明党は、支持母体である創価学会の試行錯誤に連動しながら(場合によっては振り回されながら)、変化に富んだ1970年代を過ごします。

 

1970年代前半、創価学会員の増加ペースは鈍り、言論問題により世間の注目を悪い意味で集め、創価学会次の一手をどうするべきか試行錯誤を重ねていきます。いわゆる昭和52年路線(1977年)もその一環です。公明党に関係するところでは1975年の創共協定締結が一大施策でした(あまり機能しませんでしたが)。

 

創価学会側の試行錯誤に干渉されるのが嫌だったのか、この時期、創価学会公明党の関係が複雑になることもありました。


時代の変化に対応し組織の行き詰まりを打破するため試行錯誤を重ねた創価学会でしたが、成果の乏しい結末を迎えることになります。組織改革、新たな挑戦に失敗したと言って良いでしょう。少なくとも、長期的な道筋をつけることには失敗してしまいました(池田会長(当時)が明確なストラテジーをどの程度描いていたのかは不明です)。

 

会員数の増加にブレーキがかかり、それに対応すべく、折伏大行進時代からの脱却、新しい創価学会の確立を目指した試行錯誤は池田会長の辞任という形で終焉を迎えました(昭和54年、1979年)。

 

公明党の支持母体である創価学会はグランドストラテジーの確立に失敗しましたが、公明党もまた、将来飛躍するための大戦略の確立に失敗しました。その結果、学会員の安定した支持に支えられて一定の勢力を保ち続けますが、新規支持層の拡大には失敗しました。

 

創価学会の体力が大幅に低下したにも拘らず、公明党が一定勢力を保っている理由は、創価学会以外の団体が創価学会以上に衰えたからでしょうね。

 

創価学会折伏のピークが大体1970年前後、正本堂の完成(1972年)までと言われています。創価学会員以外からの幅広い支持を取り付けることに失敗した公明党は、この時既に上限に達していたのかもしれません。

 

公明党が1970年代から現在に至るまで、革新勢力と保守勢力の間で位置取りに苦労することになった理由は、有効な長期戦略(支持を広げる為の看板となる政策の選定・実行)を立案出来なかったからです。

 

公明党の最多議席獲得は、衆参両院とも1983年。その後議席数が伸びることはありませんでした。選挙制度議員定数の変化による影響もありますが、得票率の増加を達成できなかったのは事実です。公明党創価学会の成功と共に発展し、創価学会の失敗と共に停滞したという評価に尽きるでしょう。

 

1980年以降の公明党の政局関与に関して、例えば、55年体制下での他政党との連携・衝突(自公民の連携、1983年)、竹下内閣と消費税の導入、細川政権成立(1993年)からの自社さ連立(1994年)、新進党時代(1994‐1997年)。四月会との闘争(1994-2001年……自公政権が1999年始動なので実質は1999年まで)などが大きなトピックですかね。政局的には大きな話題ですが、要は自民党との位置関係をどうするかって話です。

 

公明党の本質、公明党が抱えているシチュエーションというのは1980年以降、基本的に変化していないと考えています(政策は変化していますが)。政策変更があったにもかかわらず学会員が公明支持を辞めなかった理由は、公明党支援が信仰の範疇に、つまり合理的・理性的判断だけでは機能しない場所に含まれていたからで、現在も同じ状況下にありますね。

 

公明党の政局関与は、自民党への接近と18年間の与党生活に落ち着くわけですが、公明党がその勢力をほぼ創価学会員の支援によってのみ維持しているという状況があったからこその結末と考えています。

  

省いた部分も随分ありますが、前編と合わせて公明党の歴史を振り返ってみました