狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

公明党の歴史(前編)

公明党が結党されたのは1964年ですが、創価学会の政治進出は1955年。1955年の地方選に文化部員として何名かの学会員を送り出します。

 

大きな地域としては、東京都議会議員横浜市議会議員がそれぞれ1名誕生しています。また、それ以外に全国各地で51名の学会議員が誕生します。立候補した文化部員は全部で54名だったので、1名を除いた53名が当選したことになります。

 

国政選挙への参加は1956年。創価学会内では有名な「大阪の戦い」の舞台となった第4回参議院議員選挙です。6名が立候補し、その内3名が当選します(大阪選挙区で白木義一郎氏、全国区で辻武寿氏と北条雋八氏がそれぞれ当選)。

 

全く余談ですが、この時当選した北条雋八氏は第四代会長北条浩の叔父にあたります(北条雋八氏なんかも調べてみれば中々面白いことが判明しそうですが……貴族院議員経験者)

 

1961年11月には公明党の前身組織、政治結社「公明政治連盟」が発足。1962年1月の本部幹部会で正式発表。この時点で、参議院議員9名、地方議員約300名を抱える規模になっていました。

 

1962年、第6回参議院議員選挙で公明政治連盟は地方区と合計で9名が当選(候補者全員当選)、非改選と合わせて15議席を擁するまでになります。


1963年の全国統一地方選挙では公明政治連盟から1000名を超える地方議員が誕生します。

 

1964年には公明政治連盟から公明党に改組。国政政党としての歴史が始まります。結成当時は、参議院15名、地方議員1000名を擁する状態でした。

 

1965年、第7回参議院議員選挙では11名が当選。非改選と合わせて20名の勢力となり、参議院における第3党の地位を獲得します(自民党140議席社会党73議席民社党7議席)。

 

1967年、公明党は初めて衆議院議員選挙に候補者を立てます(第31回衆議院議員選挙)。この衆議院選挙において、公明党は一挙に25名の当選者を得ます。自民党277議席社会党140議席民社党30議席に次ぎ25議席。当事の創価学会の勢いの強さが伺えます。

 

1968年の第8回参議院議員選挙も順当に勝利し(非改選と合わせて24議席を確保)、1969年の衆議院選挙では、自民党288議席社会党90議席、次ぎ47議席を獲得。民社党31議席を押さえて第三勢力に躍り出ます。定員が多かったとはいえ、47議席(2017年10月現在35議席)。公明党(創価学会)は名実共に日本の有力集団へと成長しました。

 

そこで迎えた1970年、言論問題が発生します。実際には1969年12月に衆議院選挙があり、その直前に問題となった「創価学会を切る」が出版されています。国会で民社党などの野党が「言論出版妨害事件」として取り上げたのが1970年。

 

「言論出版妨害事件」は創価学会が日本社会の“風圧”を強烈に体験する機会となり、その後の活動方針に大きく影響を与えます。創価学会は世間を意識して行動するようになり、末端活動家の基本行動はともかく、指導内容は少しずつ穏健化、現実的なものとなっていきます。

 

言論問題以前から少しずつ穏健化、現実化の方向性はありました。個人的には、折伏経典を絶版(昭和43年版が最後)にしたのはかなりの方針転換だったのではないかと考えています。

 

1970年5月3日に行われた第33回本部総会では、言論問題を受けて、「あらゆる批判に対して、真正面から取り組み、非は非として認め、正すべきは正して前進する」と池田会長(当時)は発言。また、公明党議員が創価学会の幹部を兼任している状態を是正する旨を表明し、創価学会公明党がそれぞれ独立した団体として機能させていくことを強調します。