狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

創価学会の教義問題について(教義の一貫性とか独自性とか)

需要とか無視してマニアックな話をしましょう。今回は、創価学会の教義問題について、簡単に記事にします。まずは創価学会日蓮正宗(大石寺)周辺に限定して話をします。

 

元々、創価学会日蓮正宗(大石寺)の教義は厳密には一致していませんでした。教義が一致していなかったという表現は少し過剰な書き方かもしれませんが、教義解釈・運用において一致していなかったのは事実です。

 

創価学会は、初代会長は価値論をベースに日蓮正宗の教義を解釈し、戸田二代会長は生命論を語りました。第三代の池田会長は、日蓮仏法を人間主義や平和主義等の現代思想に結び付けて解釈しました。

 

日蓮正宗においては、文字曼荼羅=法本尊、日蓮御影=人本尊としてきた歴史があります。日蓮=大御本尊、各人が拝する曼荼羅本尊は大御本尊の分身散体、曼荼羅本尊=人法一箇の本尊という戦後の創価学会日蓮正宗が掲げてきた教義解釈が一般的になったのは、戸田会長以降です。

 

日蓮に言及するまでもなく、創価学会は、独自の教義解釈を展開してきたと言えます。化法、化儀という観点から大きな変更はなかったと考えることもできますが、教義の解釈・運用形態には、日蓮正宗を含め、一貫性はありませんでした。

 

確かに創価学会日蓮正宗の在家信徒団体として誕生し、表面的には日蓮正宗の教義を踏襲していました。しかしながら、大石寺の歴史、日蓮正宗の教義解釈の変遷、歴代会長の振る舞い等を考えると、両団体は誕生当時から独自の教義を保有(あるいは解釈・運用)していたと考えてよいと思います。

 

大石寺周辺(日蓮正宗という呼び方が使われるのは1912年前後から)の教義・教義解釈に一貫性があったかどうかもかなり疑わしい状態です(例えば文献学的に信頼できる文章からは、日興が大御本尊や日蓮本仏論について言及している文章は確認されていません)。

 

「日興以降連綿と続いてきた一貫性のある教義を創価学会日蓮正宗は共有していた」という主張は、様々な点から否定されています。つまり、創価学会日蓮正宗も、最初から「独自教義」の状態に近かったということです。

 

次に、日蓮にまで範囲を広げて言及します。多くの方が指摘している様に、当時の情報量の制約から、日蓮には歴史的事実に対する幾つかの認識間違いがあります。釈尊の生没年代、経典の成立過程に対する認識等です。また、日蓮法華経(大乗)を釈尊の直説であると認識しています。

 

日蓮に限らず、日本の仏教団体が抱える問題がここにあります……キリスト教等も同じかな。要は、経典の編纂を教主(釈尊やキリスト)が直々にやっていないため、翻訳や研鑽を経るうちに齟齬や誤謬を生んでしまい、それが現代に至るまで継承されてしまった。

 

現在の創価学会では、歴史学の成果を踏まえ、大乗非仏説(大乗非直説と書いた方が適しているか)を受け入れています。また、釈尊の生没年代についても、日蓮とは異なり、おおむね現在の定説を踏襲しています。この辺りの事は「法華経智慧(1996年)」や「教学の基礎(2002年)」に記載されています。

 

また、第一次宗創問題のゴタゴタで無かったことにされていますが、1974年発刊の「私の仏教観」の中で、池田会長(当時)は、法華経釈尊の直説でないことを認めています。

 

2014年の教義会則改定に関係なく、創価学会日蓮の文言を超えた解釈を既に運用しています。

 

更に突っ込んで話をします。日蓮は現代の民主主義では受け入れ難い様な思想を幾つか残しています。例えば撰時抄には「建長寺寿福寺極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて彼等が頸をゆひのはまにて切らずば日本国必ずほろぶべしと申し候了ぬ」とかなり過激な思想が見られます。

 

追加で書くと守護国家論では、「涅槃経の文無くんば如何にしてか之を救わん亦涅槃経の先後の文の如くならば弓箭・刀杖を帯して悪法の比丘を治し正法の比丘を守護せん者は先世の四重五逆を滅して必ず無上道を証せんと定め給う」と涅槃経に言及しながら、ラディカルな発言を残しています。

 

撰時抄には真筆が現存し、守護国家論もかつて身延に真筆が存在していたと言われる信頼のおける文章です。この様な現代においては受け入れ難い、少なくとも文字通りには受け取りがたい日蓮の思想を、創価学会は引用しません。引用するにしても、現代的にアレンジして引用します。

 

日蓮が文字に書いた以上のことを検討する行為は、日蓮を超えた行為と捉えることが出来ます。どの遺文に重きを置くか、遺文の真意は何かと複数の遺文を比較検討する行為は、事実上、独自の宗教(あるいは信仰を)を創るのと同じです。本当のところは日蓮しか知らない訳ですから。

 

私は、「宗祖が存命でない宗教団体は、いずれ独自の教義解釈・運用をするようになる」と考えています。それは時代の変化に対応する上で必要不可欠な行為です。

 

「既に創価学会は独自の教義解釈・運用をしているし、これまでもそうしてきた」まずはこの事実を認識する必要があるかと思います。