狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

選ばれた死、震える拳

 結果の見えた勝負ほどバカバカしいものはない。冷凍ピザを肴にストロングゼロをキめる時、流行にのって助成金を狙う時、日曜夕方4時にコンビニでタバコを吸う時。シケた未来を確信していても他に手立てがないからそうするのだ。時間の無駄であるとか、生産性がないとか、そんなことは百も承知のうえで他に何もないから選択する。それを何度も繰り返している。噛んで飲み込めばすぐに終わるバタースコッチをダラダラとしゃぶるように諦めと後悔を味わっている。

 

 選挙だ。最低なのは。この光景をあと何度見れば許されるのだろうか。私自身はもう何の支援もしていない。投票依頼が為に連絡を取ることも会合に参加することも無い。しかしながら、我が家は選挙となればフル稼働する。この時勢に平気で都道府県を跨ぎ、碌に理解もできない街頭演説に遠征する。血縁という鎖につながれ、あのキチガイ共がくたばるまで狂気の宗教活動に付き合うことになるだろうと思うと、投票用紙には「アサルトライフル」または「プラスチック爆弾」と記入すべきではないかと半径5mの距離から民主主義の限界を悟る。あの連中が4000票くらい抱えているのが民主主義の敗北だと思う。

 創価学会が死ぬことはあっても変わることは無い。断言できる。活動家の減少から各担当がすり減って死ぬことはあっても、理性をもって変化することはまずない。変化があるとすれば、戦争や大規模災害によって社会の構造そのものが破綻する時だろう(個人レベルで精神を病んで気付きを得る可能性は否定できない)。もっともその時には、永遠の指導者の言葉が、曼荼羅に向き合った膨大な時間が、無益であったことを実感することにもなるだろう。私はこの国の衰退(おそらくは退屈な衰退)を推測しているけれども、創価学会はその衰退の象徴となるだろうと考えている。ドラマなく一人また一人と朽ちていく。戦後日本の寵児は、戦後日本と一緒に死ぬだろう。

 

 宗教団体が消滅することに何の悔しさも無い。創価に限らず、斜陽産業著しい宗教業界がジリ貧になって滅んでくれて一向にかまわない。冠婚葬祭で飯食っている連中が失業してそれがどうしたという話である。良くて孤独死の身分だから葬式をあげる必要もない。家族を持つことも無いだろうから墓もいらぬ。宗教団体が消える。個人的な生い立ちから言えば、いい気味ですらある。

 

 私にとっての問題は、その沈みゆく泥船と心中するつもりの両親を持っていることだ。また、公共の敵とも言える活動に従事している連中に対し何もできない歯がゆさ、忸怩たる思いをどうすることも出来ないことだ。ただ惨めに死ぬのではなく、歴史に名を遺す害悪の跳梁跋扈、最後の乱痴気騒ぎをディスプレイ越しに見届けなければならない。アルコールとニコチンで理性をごまかしながら、ゴミみたいな風景の一部として腐った日常を生きていかねばならない。

 

 私はセーフティネットとしての創価学会(宗教団体)を否定しない。一部の地方議員の献身的な行動も認める。しかしながら、大局的には死滅するに相応しい組織になってしまった。教義は当初より破綻し、政治活動は二枚舌で選挙政局しか見ていなかった。間違いや失敗を反省することなく、改善することもなかった。それが創価学会公明党だ。

 

 どうせ与党が勝つだろう。投票率も振るわないだろう。インフルエンサーが何を話そうと、不祥事不正の証拠が揃おうと、世間はたいして関心を持たないだろう。創価学会は集票に全力を尽くし、進歩無い活動家は「今回は危ない」と毎度毎度の檀上幹部のセリフを胸に全国を駆け巡るだろう。自公連立政権から数えれば20年くらい、同じことを繰り返してこの国を貧相なものにしてきた。今回も同じことをするだろう。今の状況を鑑みるに1980年に池田大作が亡くなり、その時点で自公連立政権が成立した方が結果的にもう少しまともだったかもしれないとすら思える(宗創問題的に困難ですが)。いまより余裕のある時代に政権が安定した方が方向性はともかく、何をするにも融通が利いたろう。

 

 創価学会公明党に、あるいは日本社会に不平不満を言いつつも日常を満ち足りて生活できる者は、どこかで諦め、また切り捨てている。他人の人権は嗜好品であることを認めている。妻子を持ちながら、誰かに愛された経験を有しながら、何もしない。社会を守ることに利益ある立場でありながら責任を果たさない。何もせずとも、自分は助かると、逃げ切れると信じているから。私はその態度を責めはしない。私も同じ境遇ならばそうしただろうから。ただ私は生まれた時から逃げれないのである。地方議員を親族に持ち、地域の活動家の子息に生まれるとはそういうことだ。選ばれて死ぬのだ。