狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

選挙活動の思い出(2009年の衆院選)

2009年、創価学会は大逆風の中にいました。

 

2007年、第21回参議院選挙に大敗した与党自民党公明党。事前に劣勢であることを認識していた創価学会はかなり早くから選挙態勢を強いて敷いていましたが、改選前23議席を20議席に減少させ敗北を喫しました。

 

参議院選挙での敗北を1つの契機に第1次安倍内閣は崩壊。次に立った福田内閣も約1年の短命に終わり、次に成立したのは麻生内閣でした(2008年9月発足)。

 

政権交代を訴える民主党に勢いがあり、創価学会公明党の関係を今更ながら政教分離違反と訴え、創価学会への攻撃を強めていました。新聞やテレビなどの既存のメディアが民主党を推し、政権交代を促し、与党に対して否定的な時期でした。

 

矢野絢也公明党委員長との裁判が泥沼化していたのもこのタイミング。週刊誌各紙も、四月会問題当時程ではないにしろ、創価学会ネタをねじ込んでいました。

 

新しく台頭しはじめたメディア(Youtubeニコニコ動画またはMixi等のSNS)が創価学会をネタにしていました。T田一派や日衛会が活発にPV活動していた頃でもありました。

 

1000万の連帯運動(比例票1000万票獲得)が失敗に終わり、これといった打開策もなく、政権は逆風、かつての同志に訴えられ、既存&新規メディアにネタにされと創価学会にとっては四月会問題以来の試練の時でした。

 

そんな中迎えた麻生内閣創価学会が見据えていたのは次の国政選挙、第45回衆議院議員選挙でした。衆議院の任期満了の関係から、2009年8月までに衆院選がやってくることは決まっていました。焦点となったのはその時期です。

 

当時のニュースを追いかければわかりますが、創価学会は早期解散選挙を望んでいました。劣勢は免れない。2009年は都議選(7月12日)も控えていたので、政権と創価学会に逆風が吹くビハインドな状況で、選挙リソース(創価学会員)を都議選と衆議院選挙に分散されることを避けたいと思っていました。


創価学会公明党が、矢野元委員長の影響と都議選とのバッティングを避けるために、早期解散を望んでいたことは外交公電に記録されています。ちなみにですが、八尋副会長が麻生幹事長を低評価していたことも記録されています。


これは完全に私の記憶ですが、2008年末から2009年初頭にかけ、一瞬選挙体制が敷かれそうになって撤回された経緯があったと思います。学生部の上から降りてくる指示が、一瞬衆議院選挙を意識したモードになった後、折伏・友好活動への変更から都議選体制という流れだったと思います。

 

当時、日中友好展か講演会を創価学会がバックについて開催していて、そこに友人を連れだすという運動に参加した記憶があります。また2009年の4月だったと思いますが、昭和54年の池田会長辞任から30年の節目に当たる会合を、創価大学中央体育館最後の会合として開催したりしました。

 

結局、衆議院の早期解散はされませんでした。皆様ご存知の通りです。

 

当時、民主党創価学会批判が強かったこともあり、会館での選挙資料印刷禁止・配布物の保管禁止、会館周辺での選挙会話禁止、選挙の報告は隠語を使う等、「厳重警戒」な選挙活動を指導していました。

 

当時の青年部では、「フリーザ倒してきました」「ドラゴンボール集めてきました」「ファイナルファンタジー購入してきました」「レベルが上がりました」(大体の趣旨です)と意味は分からないけれど意図は伝わる謎の選挙報告が飛び交っていました。

 

当時の学生部の選挙活動はかなりキテレツなレベルでして、近隣住民の非難によりニコポン(道すがら出会った人物や一度も訪れたことのない商店での選挙支援……究極の飛び込み営業みたいなものです)はある程度抑制されていましたが(まぁやりましたが……)、それでも通報されかねない選挙活動が蔓延していました。

 

一例をあげますと、選挙重点区に遊びに行き、適当な場所で現地民と思わしき若者と仲良くなり一緒に遊び写真を撮ります。で、写真を送りたいから連絡先を教えてほしいと言って相手の連絡先を把握します。この連絡先が選挙で役に立ちます。公明支援を頼むのです……。

 

都議選は全国総出の支援活動もあり、公明党(創価学会)は何とか「全員当選の伝統」を守ることができました。連立相手の自民党民主党にボロ負けしたので、都議会において自公は過半数を割るわけですが。

 

なんとか都議会の議席を守った創価学会でしたが、都議選は前哨戦に過ぎませんでした。2008年末から創価学会が危惧していた選挙、第45回衆議院選挙が遂にやってきます。

 

2009年7月21日、内閣支持率20%を切るまで悪化した麻生内閣が追い込まれる形で衆議院を解散。都議選終了から10日程で、創価学会は約1ヵ月後の投票日(8月30日)に向けた選挙体制になりました。

 

2007年の参議院選創価学会は学生部レベルで2007初頭から選挙に全力投球しましたが民主党に惨敗しました。その時以上にビハインドな状態で勝算は……2009年の夏、創価学会(現場)はかつてない危機感で選挙活動に取り組んでいました。明らかに劣勢であることを皆が理解していました。特に首都圏活動家は都議選支援を通して、状況の不利を肌で感じていたでしょう。

 

信濃町はどうでしょう。勝ち目がないことを認めて諦めていたかもしれませんね。

2009年の夏、選挙期間が長期休暇中ということもあり、学生部は全力で選挙活動に動員されました。2009年の夏の思い出が選挙活動の青年部員は結構いるのではないでしょうか。

 

帰省して地元票(地元の友人に会ってくるor投票所に連れ出す)を取る時期を各々の幹部で調整し、八王子における日々の拠点闘争(8月は毎日やったと思う)を運営する……2009年8月の八王子はそういう場所でした。

 

重点区への遠征という点では、八王子学生部として神奈川6区(上田勇氏の選挙区)の支援(大々的なニコポン闘争)に駆り出されたのを覚えています。保土ケ谷区の保土ケ谷公園において、散歩中の地元民に声をかけ公明支援を呼びかけました。

 

結局、創価学会員の支援も虚しく公明党は大惨敗。太田昭宏代表を含め小選挙区8名全滅。歴史的な敗北を喫しました。

 

選挙最終日の深夜、大阪のある選挙区の支援活動に飛ばされていた職員幹部が拠点に立ち寄って「いやー厳しい。後2000票足りない。誰が2000票くらい入れてくれないか」と具体的な数字を挙げながら厳しい選挙戦を振り返っていたのを覚えています。

 

2009年、創価学会は外からの烈風に晒されていました。対戦相手が微妙に変化したものの、強い対戦相手に負けた (内側に多くの問題を抱えていたとはいえ)、それまで通りの試合だったのではないでしょうか。

 

2021年はどうなるでしょう。外からの強い風は吹いていませんが、組織の内側に隙間風が流れていますね。創価学会公明党に対して不満を抱えている会員が明らかに増えました。少子高齢化が進み組織の基礎体力が低下しました。2017年の衆院選では比例票が700万票割れ、選挙区も1つ落としました。

 

1999年の自自公連立政権樹立からの10年間は、創価学会が対外的な圧力と戦った最後の10年だったように思います。山崎正友氏の最終楽章、共産党ハード路線最後の攻勢、矢野元委員長との暗闘、社会党四月会系議員との攻防、インターネットの興隆……

 

2009年からの10年間は、内側の矛盾が噴出した10年だったのかもしれませんね。教義問題、職員の権力闘争、名誉会長の不在、公明党の政策転換。あッという間の10年でしたが、トドメの10年だったのかもしれませんね。

 

来年は衆院選。変化の時。