池田会長(名誉会長)の公明党への影響力はどの程度のものだったのか。これは多くの方が気にかけていることではないでしょうか。
また、創価学会員が公明党を支援する理由の一つに「池田先生が作られた公明党、池田先生は公明党を支持している、池田先生と公明党の考えは一致している」という点があげられます。
もし、池田会長(名誉会長)が公明党に対して影響力を与えていなかったとしたら、公明党支援と池田大作という人物を短絡的に結びつけるのは難しくなります。
何かヒントになるような文章は無いかと、アメリカ公文書館のデジタルデータを漁っていましたら、1975年、竹入公明党委員長(当時)が初めて駐日アメリカ大使と会談した時の公文書を見つけました。
驚くべきことですが、公文書から推察するに、1975年当時、池田会長(当時)は竹入公明党委員長に影響を与えていなかったようです。池田会長時代には、ある程度公明党に指示を出し、影響力を行使していたと私はイメージしていたので、驚きました。
以下、該当公文書PDFへのリンクです。
https://aad.archives.gov/aad/createpdf?rid=316726&dt=2476&dl=1345
Document Number:1975TOKYO13532
Draft Date(原稿作成日):1975年9月25日
SUBJ: AMBASSADOR'S MEETING WITH CGP CHAIRMAN TAKEIRI
(題名:大使と公明党委員長竹入の会談)
全文を通して興味深い内容が多いのですが、何点かに的を絞って取り上げます。ちなみにですが、文章の機密レベルはConfidentialです。
まずは文章の要約部分とその和訳を紹介します。
SUMMARY: DURING HIS FIRST MEETING WITH THE AMBASSADOR, CGP (CLEAN GOVERNMENT PARTY--KOMEITO) CHAIRMAN TAKEIRI URGED US SUPPORT OF UN UNIVERSITY, DESCRIBED IKEDA-MIYAMOTO MEETING AND 10-YEAR SOKA GAKKAI/JCP COEXISTENCE AGREEMENT AS A "MISTAKE," UNDERLINED THE IMPORTANCE OF US RELATIONS TO JAPAN, AND PRONOUNCED HIMSELF DEEPLY AWARE OF CGP RESPONSIBILITIES AS A POTENTIAL LDP COALITION GOVERNMENT PARTNER. TAKEIRI CAME ACROSS AS SINCERELY PRO-AMERICAN, BUT THERE ARE CLEARLY POLICY NUANCES, IF NOT DIFFERENCES, WITHIN CGP.
(要約):公明党委員長の竹入は、大使との初めての会談中、国連大学の支援を要請し、池田‐宮本会談と創共協定を過ちだと表現し、日米関係の重要性を強調し、潜在的な自民連立政権のパートナーとしての公明党の責任を深く認識していると発言した。竹入委員長は心から親米的という印象を与えたが、もしその印象が違わない場合、公明党内には明らかな政策の差が存在する。
竹入委員長は、公明党が自民党連立政権のパートナーになり得ると考えていたようです。自民党との連立政権が現実となっている現在においては、何とも感慨深いものがあります。1975年の公明党は、表向きは対自民党の要素が強かったはずですが……
竹入委員長の創共協定に関するコメントは興味深い内容が多いので、少し詳しく紹介します。
TAKEIRI SAID IT WOULD BE CORRECT TO UNDERSTAND SOKA GAKKAI/JCP COEXISTENCE AGREEMENT (AND PRESUMABLY THE MIYAMOTO-IKEDA CONVERSATIONS) AS A "MISTAKE."
(竹入委員長は、創共協定(とおそらくは池田‐宮本会談)を過ちと理解することは正しいだろうと述べた)
REFERRING TO NON-GAKKAI/CGP SPECULATION, TAKEIRI NOTED POSSIBLE IKEDA MOTIVATIONS: (A) THAT IKEDA WAS SIMPLY OUTSMARTED BY MIYAMOTO;(B) THAT JCP HAS SOMETHING ON IKEDA; (C) THAT IKEDA'S MEETINGS WITH WORLD LEADERS HAVE MADE HIM EGOISTIC AND ARROGANT; AND (D) THAT IKEDA IS INTENT ON NOBEL PEACE PRIZE.
(竹入委員長は、非学会/公明党系の推測に言及し、池田会長の(創共協定に対する)考えられる動機に言及した。
(A)池田会長が単純に宮本委員長にしてやられた。
(B)日本共産党は池田会長の弱みを握っている。
(C)池田会長の世界の指導者との対談が、池田会長をわがままで傲慢にした。
(D)池田会長はノーベル平和賞に執心している。)
1975年の時点で、公明党委員長と池田会長がここまでずれているとは思いませんでした。上記の(A)~(D)のコメントを竹入委員長の口からアメリカ大使に伝えて、池田会長に都合の良いことは何もないでしょう。
公文書の最後の部分はアメリカ大使側のコメントになっているのでその部分を紹介します。
WHILE HIS COMMENTS GENERALLY WERE LITTLE DIFFERENT THAN WHAT WE HAVE HEARD PRIVATELY OVER THE YEARS, HIS CRITICAL REMARKS ABOUT IKEDA STRUCK US AS BREATH-TAKINGLY CANDID AND INDICATIVE OF PROFOUND POLITICAL DIFFERENCES BETWEEN THE TWO MEN.
(竹入委員長のコメントは、概して、ここ数年間、非公式に聞いてきたものとほとんど違わなかったが、彼の池田会長に対する批判的な発言は、我々に、あっと言わせるような率直さと池田会長‐竹入委員長間の深い政策差を印象づけた)
1975年に竹入公明党委員長は、アメリカ大使を前に池田会長批判を行っていたようです。1975年、公明党委員長と池田会長は相違していたということです。1975年と言えば、池田会長に一番力があった時期ではないでしょうか。
推察するに、1975年の時点で、池田会長は公明党の政策に非干渉であったか、あるいは、影響力が及ばなかったということですかね。1975年の時点で、政策面において、池田会長と公明党委員長は意見を相違させていたと。
この竹入委員長とアメリカ大使の会談の場には、竹入委員長以外にも公明党議員が少なくとも1名、参加していたことが記載されています。その公明党議員は、池田会長と公明党委員長の間に意見の相違があること、公明党委員長が池田会長に批判的な態度をとっていることを知っていたことになります。
竹入委員長は、1990年代、朝日新聞への回想録の公表を発端に、公明党・創価学会より、“裏切り者”として、糾弾された人物です。“裏切り者”として批判された時、竹入委員長が非難された内容は金銭問題や学歴問題でした。
1975年当時から池田大作批判を行っていたこと、公明党委員長の見解が当時の一般的な公明党支持者(学会員)と異なっていたことが批判されたことはありません(少なくとも私は見たことありません)。
1975年当時、池田会長と意見を相違していたこと、池田会長批判を行っていたこと。創価学会幹部と公明党議員は、そのことを知らなかったのでしょうか。