狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

補陀落渡海

以前沖縄の宗教を調べていた時に偶然知ったのですが、日本にはかつて補陀落渡海(ふだらくとかい)という命を賭した修行(捨身行)があったそうです。補陀落渡海とは何か。以下、和歌山県のHPから引用します(和歌山県那智勝浦が補陀落渡海の地として有名です)。

 

特集 海の国から

 

「本州最南端近く、和歌山県那智勝浦町に補陀洛山寺(ふだらくさんじ)という名刹がある。うつぼ舟と呼ばれる小さな舟にわずかばかりの食料と水を積み込み、南方海上にある観音浄土を目指す。そこは百花百村(びゃっかひゃくそん)、色鮮やかな花が咲き乱れる楽園だと言う。悩みや苦しみの多い此岸(現実世界)から、彼岸へと旅立つ補陀落渡海である。」

 


補陀落渡海周辺の信仰観に詳しいわけではありませんが、この様な修行が存在したことに衝撃を受けました。

 

何故そこまでしたのか、観音の浄土(理想郷)に到達出来ると本気で信じていたのか、苦しみを逃れて自殺する理由が欲しかったのか、海に出てから閉じ込められた狭い船内で何を考え思ったか、出港後に後悔しなかったか……想像し考えたところで答えは出ません。推察するだけで狂気に染まりそうです。ちなみにですが、強要されて無理やり渡海させられた例もあるそうです……。

 

補陀落渡海では海の機嫌任せに数日から最大で一ヶ月程度、小さな船内に閉じ込められて海上を漂うことになります。海が荒れれば溺死、荒れずにご機嫌なら餓死か渇死。経を唱えながら確実な死を一人孤独に待つ。その様な行動に出た人物が複数人いるだけでも十分驚きなのですが、歴史の魅力はその上をいきます。なんと補陀落渡海を生き延びた人物がいます。

 

1500年代に補陀落渡海に挑んだ真言宗の僧侶日秀は、那智勝浦からはるばる1000キロほど漂流した後、現在の沖縄県にたどり着き、死を免れたそうです。

 

日秀は沖縄に漂着した後、宗教活動に励み、寺社の創建や再興に関わったという記録が残っています(後付けの伝承もあるそうですが)。最後は再び海を渡って薩摩藩(現鹿児島西部)において没したそうです(薩摩の地においても宗教活動に励んだ)。

 

日秀が補陀落渡海に挑んだとき何を考えていたのかは分かりませんが、沖縄にたどり着く……などとは想定していなかったでしょう。そもそも沖縄と言う存在を知っていたかどうか。

 

死ぬことをほぼ確定させた人物が生き永らえ、想定外の場所でその専門性を発揮、功績を残す。その陰には誰にも看取られず海に消えた人物が何人もいるわけですが、歴史が動く時、人知は及ばないのかもしれません。出来れば一人でも多くの人物が、海に沈まなければいいなと。そんなことを考えたりします。

会員が創価学会から離れる理由

会員が創価学会から離れるには必ず理由があります。「創価学会に魅力を感じなくなった」から離れると言えばそれまでですが、「創価学会に魅力を感じなくなる」きっかけは幾つかパターンがあります。

 

今回は、私が見てきた典型例を紹介したいと思います。


1. 会員の振る舞いに幻滅した
おそらく最多ケース。家族を含め、会員の振る舞いに嫌気がさして離れる人は多い。「教主釈尊の出世の本懐は、人の振る舞いにて候いけるぞ」とは言ったものです。発展形としては、身近な会員との意見の相違に疲れて離れるケースも。家族間、友人間等、距離が近いほど疲れます。人間関係絡みで離れるケースが最も多く、そして最もつらいように思います。人付き合いが真摯な人ほど、譲れない部分がぶつかってしまいますね。泳ぐ人達には関係ありません。


2. 組織の打ち出しに疑問を感じた
公明党の政策、選挙支援含め、組織の打ち出しに疑問を感じて離れる人も多いかと思います。具体的な打ち出し内容、及び打ち出しの姿勢(押し付け感が強い)、その両方が引き金になります。以前も少し指摘しましたが、自公政権以降のやり口に嫌気がさして離れるケースが多いですね。また、人材グループ等での追い込みが嫌になるケースも多々見られます。酷い場合は病気になります……


3. 活動で人生が苦しくなった
説明する必要も無いかと思いますが、カツカツに活動して自分の首を絞めるケースです。真面目な人に多いですね。余暇の時間や休息の時間を削って活動して駄目になるまで頑張ってしまうケースです。「やめたら罰が当たる」みたいな強迫観念が追い込んでしまいます。体を壊して病気になるまで頑張ってしまう人もいるので、苦しくなる前に離脱するのが吉です。


4. 非会員との交流に触発された
分かり易いのが非会員との結婚。次が出産。家族を巻き込んでまで創価と繋がりたい……と思う人は一部の活動家に限定されます。何となく創価の家に生まれてたまに会合に出て、学会というものを特に深く考えてこなかったが……という方が非会員との結婚で創価の肩書どうするか、考える。でまぁ、利より不利の多さを知ると。

結婚で「本尊持ってくのかどうか」等口論になって、両親家族と険悪になって離れるケースもありますね。もっとも、学会員同士の結婚においても子供の入会を躊躇うケースは多い。

哲学・宗教の話から友人と口論になったり、何となく頼んだ選挙支援で創価学会公明党を知り……というのも多いですね。交友関係が広い方ほど、学会外の話に振れやすい。また選挙を頼むにしても、ルーチーンとして広く浅く頼む人と、他政党の支持者と喧々諤々やる人では会話の濃さが違います。他政党の支持者とディスカッションするタイプの人は、状況次第で学会組織との距離を変化させます。


5. 創価学会の本当の歴史を知ってしまった
完全無欠・清貧潔癖と思っていた創価学会が、金にまみれた不祥事集団と知った時です。幹部のスキャンダルなんかも当てはまりますね。Y元男子部長の件は大きな影響があったと思います。NTTドコモ事件しかり。最近だとキャバクラ辞任したホープがいましたね。反創価情報=デマとレッテル張りでしのいでいたおかげで、一度確信をもって「知る」と決壊は早いです。


6. 教義・信仰上の誤りに気付いた
Twitterでも指摘しましたが、教義問題はボディーブローです。派手なスキャンダルの様に会員を揺さぶることはありませんが、名刀が少しずつ刃こぼれするように、真面目で熱意のある会員からフェードアウトさせていきます。

前述した1~5の様々な要因から創価学会や池田名誉会長に疑問を感じたとします。「それでも信仰・御書は正しい」と何とか踏みとどまろうと思った方が、教義上の不備や遺文の真偽、富士の濁流、自語相違を知った時……一気に離れますね。信仰は保っても創価学会からは離れます。

 

7. とにかく嫌になった

生まれたときから創価学会員。日常生活を守るため、疑問を持ちながらも活動してきた。人によっては、そもそも創価学会に魅力を感じることも無かったかもしれない。それが限界になってしまった。1~6を少しづつ抱擁していたのが、リミットを超えてしまったが故、飛び出すことにしたパターンです。最近は、これが多いのではないかと思います。人間関係にしろ、教義にしろ、公明党の政策にしろ、疑問は確かに持っていたけれど、我慢して従ってきた。それが嫌になった。まぁ、嫌になるのが正常かなって思います。

 

だいたいこの様な分類が出来ると思います。SNS含め、Web上で創価学会、それも身近な活動、会員、組織、個人的な生い立ち等が議論されるのは、現場組織で上記シチュエーションに対応できないからでしょう。

 
似た様な悩みを抱えている会員がWebで繋がる。「疑問を感じていたのは私だけでは無かったのか…」という安心感が自身の意見なり感情をより堅固にする。感情共有による得心、SNS時代ならではでしょう。
 
教義に関しては少し特殊ですね。一般会員がディープな教義論争にアクセスし易くなったのは確かにSNSのお陰ですが、セーフティネットとしては機能するが教義問題には対応できない、そもそも末端会員が本当の意味で教義教学に興味を持ち辛い……という創価学会の中で、有志が議論の場としてWebを選んだのは自然な事かと思います。そしてその歴史はSNS時代よりもだいぶ前、2000年前後には既にあったようです。

 

私のブログにも、拙いながら教義教学に関する記事がありますが、そこで書いてあるようなことはもう何年も前から知られていたことです。私としては、蓋然性はかなり低いとはいえ、若い世代が教義教学に疑問を持った際の「入口」を僅かでも提供できればと思っています。公明党関係も同じ。

 

ただ前回も少し書きましたが、最近の状況を観察していると、教義関係や公明党の方針に疑問を持つ形で組織を離れる人は、一段落したように思います。2014年の教義変更、2015年の安保法案、なりふり構わぬ選挙支援。2012年あたりから2017年くらいまでの5年間、ある程度自分の頭で考えることが出来る会員を組織から離反させる要因をつくったのではないでしょうか。

 

いずれにせよ、自分の人生の為にならないならば離れるがいいと思います。明確な動機や目的は、必ずしも必要ではないです。その後どの様に振舞うかも自由です。教義教学を学ぶなり、政治運動に参加するなり、一切距離を置くなり、少し落ち着いて過去を振り返るなり、自分の好きなようにすればいいでしょう。

おすすめ軍事書籍ー機関銃の社会史

強力な兵器の出現は、その強大な破壊力によって、戦争あるいは戦闘を抑制抑止するだろう。そんな目論見は常に外れきた。ダイナマイトを発明したノーベル、毒ガスの父ハーバー。ダイナマイトも毒ガスも、強大な破壊力によって戦争をより残酷にし、死人の数を増加させるだけに終わった。

 

核兵器はその目論見を達成できているように感じるかもしれない。核兵器が、大国同士の戦争を抑止している部分も一面にはある。しかしながら一方で、冷戦期における代理戦争の増加や核保有国による通常兵器限定の戦争-そのいくつかでは大きな成果を示せなかった-は、核抑止の限定性を証明するものだろう。また、テロリスト相手に核兵器は抑止力にならない。明確な領土を持たぬ相手に、大量破壊兵器は効果を示せない。対テロ戦争20年、多くの命が奪われたが、まだ紛争は終わらない。

 

機関銃(マシンガン)を作った男も同じことを考えていた。近代機関銃の祖であるガトリング銃を発明した男、リチャード・ジョーダン・ガトリングその人である。彼は南北戦争-世界初の近代戦-の惨禍を目撃した後、以下のように考えたらしい
「兵士100人分の仕事を1人でまかなえる兵器は、大軍を不要のものとし、結果的に戦禍や疾病にさらされる兵士の数を大幅に減らすことが出来るだろう」
それが誤算であったことは、第一次世界大戦が嫌というほど証明することになる。

 

さて、今回紹介するのはそんな機関銃の歴史に焦点をあてた書籍、「機関銃の社会史」である。奇妙なタイトルに思えるかもしれないが、何でも研究対象にしてしまう社会学歴史学という学問からすれば、機関銃も立派な研究対象である。

 

近代小銃(後装式ライフリング銃)の登場によって、殺戮のスピードは驚異的に向上した。近代銃はそれまでの前装式銃(火縄銃の類)よりも数倍早い発射速度とより正確な射撃を可能にした。機関銃はそれを更に過激に効率化したと言える。どのくらいの違いがあったかというと、第一次世界大戦勃発直後(1914年)、通常の小銃を用いた兵士は良く訓練された者で1分間に最大で30発、新兵では10発程度の有効な射撃が可能だったが、1908年製の機関銃は1分間に500発の発砲が可能だった。ADSL回線と光ファイバー回線くらいの差がある。

 

ではその驚異的な能力をもつ機関銃は、使用者たる当時の軍隊から歓迎され、直ぐに普及していったのかと言うと、そうではない。その解説こそ、この本を読む面白さである。

 

ガトリング銃をはじめ、機関銃の祖といえる工作物達は、だいたい1800年代の後半に姿を現し始める。最初期の機関銃が、工作精度の低さによる作動不良・故障の多さによって、信頼を得難かったのは事実であるし、運用上の未熟さによって、本来の効果を実戦で示せないことがあったのも事実である。どちらも最新テクノロジーの導入時には良くある類の話だが、それ以上に機関銃の普及を妨げた原因は、保守的で凝り固まった当時の軍隊組織にあった。

 

当時の軍隊では、不屈の意思を持った兵士の突撃によって、あらゆる敵の防衛線は突破可能であると考えられていた。軍隊の幹部は、戦争とは生身の人間が行うものと考えていたし、技術変化を受け入れることを毛嫌いした。機械に支配される戦争を認めることが出来なかった。要するに、技術に対して無知であるだけでなく、自分達の精神基盤を奪う技術を受け入れる気がなかった。少し長くなるが、著者の言葉を以下引用する

 

「士官たちの戦争に対する観念は、いまだに昔ながらの白兵戦と個人の武勇という信念が中心になっていた。自分たちは戦場で相まみえるのであり、そこでは主役は未だ人間であり、勇気と覚悟さえあれば必ず勝てるものだと思っていた。幸運にもイギリス人、あるいはフランス人、ドイツ人に生まれたからには、当然それに相応しい気質に恵まれているはずだ。そうした者が、単なる機械に昔ながらの自分たちの特権を奪われるのを容認するわけにはいかない。そこで、機関銃を無視することになった」

 

当時機関銃の有効性に気付いた者、その活用を主張した者の存在も、書籍においては紹介されている。凝り固まった組織にも先駆者はいるものだ。だが彼等は少数であり、なにより軍隊の主流派から離れた場所にいたらしい。つまり、優れた意見であったが影響力を行使できなかった。機関銃以外の分野においても、まことに散見せらるる事象ではないでしょうか。

 

1800年代後半から第一次世界大戦まで、列強同士の大規模戦争はあまり起きなかったが、機関銃に活躍の場-技術レベル証明の場-がなかったわけではない。それはどこだったかというと、アフリカをはじめとした植民地地域である。

 

大規模な軍隊を派遣し辛い植民地地域において、1丁で100人分の働きをする機関銃は、少数による多数支配を支えるマスターピースともいえる働きをした。機関銃を装備した少数の部隊が、数では圧倒的な現地民をなぎ倒したのである。槍や弓、旧式の小銃しか持たない現地民に対し、毎分数百発の鉛弾を吐き出す機関銃を使用したのである。どういう光景が繰り広げられたか、想像に難くない。

 

機関銃の威力は証明された(あまりにも悲惨な証明であったが)、だが前述した理由によって、本国の軍隊が変わることはなかった。革新的な兵器であった機関銃は、植民地地域においてその実力を遺憾なく発揮した。先見の明ある幾人かの軍人知識人は機関銃の重要性を訴えた。にもかかわらず、第一次世界大戦で死体の山をきずくまで、ヨーロッパの大国において、機関銃は軽視されていた。もちろん、多少の配備ははじまっていたが、その恐ろしさ、自分たちが被るであろう被害について、あまりにも想像力が欠如していた。

 

そして迎える第一次世界大戦。人類史に残る大殺戮の始まりである。ソンム、ヴェルダン、イーペル。地獄と形容するにふさわしい戦場が幾つも形成されわけたが、機関銃こそが地獄をつくった主犯であった。1分間に500発の銃弾を発射する機関銃に向かって、500メートル離れた位置から数十キロの荷物を抱えた人間が突撃すればどうなるか、少し考えれば分かりそうなものだが、実際に惨劇を目にするまで、否、実際に惨劇を目にしてなお数年、分からなかったのである。

 

第一次世界大戦で機関銃が果たした役割について、その一例を紹介する。1915年に起きたある戦いでは、2丁の機関銃と10名程度の兵士が、1500名の攻撃を足止めした。まさに機関銃は、1丁で100人分の働きをしたのである。先に挙げた、ソンム、ヴェルダン、イーペルにおいては、両軍ともに甚大な犠牲者を出したにもかかわらず、決定的な成果を出すことに失敗した。途方もない数の兵士が前進し、その都度機関銃によって倒されたのである。

 

書籍において紹介されているが、本当に恐ろしいのは、そんな壊滅的な惨事を目にしてもなお、数年間同じことが繰り返されたことにある。機関銃陣地への無謀な突撃が何度も繰り返され、状況の変化に対応できないまま、いたずらに犠牲者を増加をさせた。機関銃は一瞬にして数百名の命を奪い、指揮官たちが立案した幾つもの作戦をとん挫させたが、凝り固まった精神を破壊するには数年の月日を要したのである。

 

本書籍の後半においては、時代の象徴としの機関銃について、考察がなされている。第一次世界大戦が終了し、軍隊に活躍の場がなくなると、機関銃も行き場を失う。そんな中、機関銃を愛用する者たちが現れる。ギャングだ。アル・カポネを始め、1920、30年代のアメリカを荒らしまわったギャングたちが使用したのが、機関銃を携帯可能なサイズに変化させたもの、サブマシンガン(機関短銃)だ。トミーガン、シカゴタイプライターと言えば、ミリタリーに興味のない方でもご存知かもしれない。

 

調べれば調べるほど、禄でもない代物である。植民地支配をサポートし、大量虐殺を完成させ、ギャングの得物になる。おそらく機関銃ほど、人間の暴力性を昇華させた兵器もあるまい。戦車、戦艦、戦闘機、あるいは毒ガスや核兵器と違い、1人で扱えるその小さな工作物は、その気になれば1000人、2000人を殺すことができる。機関銃こそ暴力の象徴だ。

 

以上、「機関銃の社会史」の概要について紹介させてもらった。まだまだ紹介していない部分もあるが、長くなったのでここらで終わりにしようと思う。内容からして、一般人向けの書籍とは思えないかもしれない。しかしながら、技術の進歩とそれに対応できぬ専門家集団、革新的な発明に対する不理解、辺境における成功とそれに対する主流派の無関心、そういった構図は分野を超え、いつでもどこでも起こりうる。本書は、機関銃に興味のない人にとっても、新しい発見を提供してくれるだろう。

価値創造と日蓮主義

価値創造というタームは大正時代において既に使用されていた。それは、知っている人は知っている、そういう話題でした。私は、価値創造というタームは創価学会の牧口会長・戸田会長が初めて使用した(あるいは創りあげた)と思っていました。

 

気になったので国立国会図書館のデジタルコレクションを検索してみると、確かに価値創造というタイトルが付けられた書籍(大正期に出版されたもの)が何件かヒットしました。

 

調べて更に驚いたのは、星野武男という方が1921年に「日蓮主義の文化的研究」というタイトルの書籍を出版し、その中で「価値創造の哲学 一念三千の意義」という章を設けていたことです。「日蓮主義の文化的研究」はデジタルコレクションなので誰でもオンラインで閲覧できます。

 

ある方から教えて頂きましたが、「法華経の研究 : 一名・法華経の文化学的研究」というタイトルの書籍の中に「綜合的價値創造の經典」という章があるそうです。こちらは国立国会図書館に出向かなければ閲覧できません。この本の著作者である里見岸雄は、田中智学の子息とのこと。

 

日蓮主義の文化的研究」という書籍にも、田中智学が紹介文を寄稿していました。両書籍とも、国柱会と深い関係があるようです。知っている方も多いと思いますが、牧口会長は国柱会の会合に顔を出していた時期があります(1916年頃)。

 

日蓮主義の文化的研究」の中身を覗いてみると、「生命の宗教」「価値の哲学」「最高級の生命が仏界」「宇宙生命もこの十個の分類法よって解剖される」等。どこかで聞いたことがある様な言い回し、フレーズが並んでいます。牧口会長・戸田会長の言い回し、日蓮法華経解釈に用いたフレーズの幾つかは、国柱会譲りなのかもしれません。

 

断っておくと、「日蓮主義の文化的研究」において用いられている「生命」という単語と、戸田会長(や戦後の創価学会)が用いた「生命」では意味する範囲、解釈が異なるようで、まるパクリという訳ではないです(宇宙生命論への是非は別の話です)。また、私はそれ(模倣)を非難したいわけではりません。

 

そもそも、国柱会と初期創価学会日蓮正宗では根本的に異なる部分があるので(日蓮本仏論&大御本尊のコンビ)、意味するところが違うのは当然と言えば当然です。ただ、使い易い言葉として参考にした蓋然は高いのでは?と思ったりします。

 

牧口会長は1903年(32歳の時)に「人生地理学」を出版しています。柳田國男との交流をはじめ、国柱会の会合に参加する以前より、思索・研究活動に熱心だった人です(キリスト教を学んだこともあったそうで)。日蓮主義に限らず、時代の潮流、流行りの思想には目を通していたでしょう。牧口会長がいつ頃まで国柱会に興味持っていたかは分かりませんが、参考にしていてもおかしくありません。

 

日蓮主義の文化的研究」の出版が1921年。牧口会長の日蓮正宗への入信が1928年。「創価教育学体系 第1巻」の出版が1930年。「創価教育学体系」が出版される9年前、牧口会長の入信7年前に、「日蓮」をテーマにした書籍で「価値創造の哲学」という単語を用いた人物が存在した。

 

創価学会というものを、明治・大正期の宗教・思想変動の中から捉える必要性があるのでしょう。それにしても、日蓮という人物が、近代、現代の日本に与えた影響は少なくない。そう思わせてならないですね。

信濃町に目を付けられる人

信濃町に目を付けられてしまう人。端的に言うと、金と票にならない会員を増加させ得る方です。

 

インターネットの普及により情報の拡散に歯止めが掛からなのはもう何年も前からですが、各種SNSの存在は会員に議論の場を提供したという点で目新しさを感じます。

 

知っている方も多いと思いますが、反創価学会系のサイト(HP)は以前から多数存在していました。ただ、古くから(1990年代後半から2000年代前半)存在する学会批判サイトの多くは創価学会を全否定するタイプ (日蓮正宗系サイトや反公明系サイト(反日云々の右翼系))だったので、会員にたいする影響力は限定的だったと思います。

 

1990年代後半から2000年代前半と言えば、創価学会が週刊誌とバトルしていた時期でもあり、「反創価系情報=デマ・ウソ」の構図が各会員の中でも強かったと思います。また、インターネットが今ほど普及していませんでした。

 

2000年代後半からでしょうか。ブログの普及によって、個人がネット上で情報発信するハードルが下がり、学会員が個人的に情報発信する場所が増えたと考えています。活動家系、アンチ系、観察系、資料系、素直な感想系……様々な情報が流れる様になったのではないでしょうか。

 

ブログの普及時期と前後して、反創価学会に限定されない、反日蓮正宗教学、反富士門流のスタイルのサイトも増えたのではないかと個人的には感じています。

 

少し余談ですが、今言われているような教義問題の多くは、少しネットを漁れば幾らでも出てきます。特に創価学会に限定せず、日蓮正宗教学、日蓮法華経……抱えている課題について随分前から指摘、考察されてきた様です(書籍上ではもっと古い)。

 

しかながら全体的に知名度が低く、加えて学会員の多くが教義問題に余り関心を示さないので、創価学会にとってクリティカルな案件であっても、学会本部は特に取り合わずに済んできました(これからはどうかな?)。

 

古くから存在するアンチ系サイトの特徴は、学会と池田名誉会長を全否定するところにありますが、この条件に影響される会員は、第二次宗創問題前後で既に創価学会を去っていることが多いでしょう。

 

後になってから様々知って……という方もいると思いますが、創価学会と池田名誉会長を全否定する格好で学会を抜ける人・活動家を辞める人は全体から見れば少数派なので、世間のイメージ対策と言う点では信濃町も看過出来ないはずですが(この辺は信濃町の怠慢)、既存会員への影響力に関しては無視できる範囲です。

 

SNSによって知名度が上昇することもあると思いますが、「学会と池田名誉会長を全否定する」系のサイトなり人物が現役学会員(特に活動家)に影響力を与えることは殆どありません。そこは入り口としては狭いだろう、というのが私の見立てです。

 

これまでの反創価学会的主張の多くは、学会・公明党・名誉会長を一緒くたに非難する傾向にあったので、池田名誉会長を尊敬する会員の多くは、その手の主張を一緒くたに否定してきました(その是非はともかく)。

 

反池田名誉会長路線に同調者が殆ど出ないことを知っている信濃町は、古いタイプのアンチにそこまで関心がありません。


信濃町が対応に苦慮するのは以下2パターンあって、

 

1.池田名誉会長を強く肯定した上で、現学会執行部、あるいは公明党に異議を唱える方
2.難しい話抜きに創価学会が嫌になった体験談を素直に語る方

 

理由は簡単で、同調者を量産、つまり金と票にならない会員を増加させるポテンシャルを秘めているからです。特に、組織で有役職者だった方は影響力が大きいと判断されるでしょう。

 

名誉会長が直接指導をしなくなった今、名誉会長の発言を巡って解釈論争をすれば創価学会は分裂一直線です(私は全く困らないですが)。体験談と感想の発露という、感情のメディアであるSNSの特徴を最大限に引き出す方々は、離反者を指数関数的に増加させるポテンシャルを秘めています。

 

法華経日蓮に限らず、宗教というもの政治というものを在野的に学んで発表されている方々もおりますが、金と票に対する影響力は限られているかなって感じです。もっとも、そう言う人達は現在組織の方向性とか名誉会長の評価だとか何遍も言われてきた教義批判だとか、そこまで興味ないでしょう。学究の徒とはそういうもの。

 

個人的には、ここ2、3年、創価学会を離れた理由を素直に話す人が本当に増えたように感じますね。教学や公明党の政策関連で離反する人は、もう一段落したかなって感じです。末端会員には関係ありませんが、職員にとっては死活問題でしょうか。もっとも、蓄えがたんとあって、しばらくはそこまで困らない可能性もあります。

創価学会の教義問題(罰論功徳論と本尊)

書籍やネット上において既に何度も指摘されていますが、「若脳乱者頭破七分」と「有供養者福過十号」の記述は、全ての曼荼羅本尊に記載されているわけではありません。

 

むしろ、日蓮真筆本尊と見なされている本尊群の中で(現在確認されているのは127体(幅)というのが一応の定説だそうです)上記二文が記載されている本尊は少数派に属します。

 

また、「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」ではなく「謗者開罪於無間」「讃者積福於安明」が用いられているものもあります。「若脳乱者頭破七分」と「讃者積福於安明」の組み合わせもあります。

 

「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」「謗者開罪於無間」「讃者積福於安明」を全部載せている本尊もあります。

 

以下、日蓮真筆本尊の相貌が確認できるサイトのリンクを貼り付けておきます。
http://juhoukai.la.coocan.jp/mandara/mandaraitiran.html

 

おそらく、山中喜八氏の本尊集をベースにオンライン化したものです。実際には、もう少し追加分があるそうです。歴史的経緯から紛失した本尊もあるでしょう。

 

「若脳乱者頭破七分」と「有供養者福過十号」の記載がある本尊は、弘安年代のある期間に作成された本尊に限定されます(弘安元年から2年まで)。

 

弘安4年や5年、日蓮最晩年に作成された本尊には見られません。ついでに言うと、弘安2年に作成されたとされる大御本尊には「若脳乱者頭破七分」と「有供養者福過十号」の記載はありません。

 

何か理由があるのかもしれませんが(授与者の状況とか?)、同じ日に作成されたと思われる本尊(図顕日が同年同日)で、片方の本尊には「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」「謗者開罪於無間」「讃者積福於安明」を全部載せているにも拘らず、もう片方の本尊には一つも記載していなかったりします(上記リンク先、61番と62番の比較)。

 

本尊の相貌について詳しいわけではありませんが、日蓮自身、本尊作成に関して試行錯誤(あるいは臨機応変さ)があったのかな等と考えたりします。ちなみに、最初に作成されたとされる本尊(通称 楊枝本尊)はかなりシンプルな構成です(佐渡に渡る直前という余裕のない状況も関係するかもしれませんが)。

 

創価学会では、罰論・功徳論に絡めて、「若脳乱者頭破七分」「有供養者福過十号」の部分を強調しがちですが、果たして本当にその必要があるのですかね?私も10年前に須田晴夫氏の著作を読むまで(それも偶然)、本尊の相貌に差異がある事を知りませんでしたので偉そうなことは何も言えません。

 

運のよいことに、創大の図書館には山中喜八氏の本尊集が蔵書されていたので、現物を眺めることができました。そこで感じたのは、本尊作成に関する日蓮の試行錯誤でした。あるいは臨機応変さでしょうか。

 

弱者男性について当事者が思うこと

弱者男性というワードが目立つようになった。私自身、似たようなことをテーマに記事を書いてきたが(自分の暗い話をしてきただけな気もする)、ネットで見かける弱者男性をテーマにした記事の多くが、女性差別(女性蔑視)やフェミニズムとの対比、差別構造におけるカテゴライズ等にフォーカスされていることに違和感を感じる。まぁ、弱者男性の悲惨さを強調するのはアレだな、貧困特集なんかと同じだ。インパクト、取れ高狙いだろう。

 

人間をカテゴライズすることは可能だ。性別、国籍、人種、遺伝子、資産、教育……挙げればきりがないだろう。その中で、性別はかなり大きな影響を持っていると思う。私は日本道徳教育の落ちこぼれであり、友人も少なく、家族は宗教狂い。経済的に優勢でもなく、知能が特段秀でているわけでもない。私は、よりどころとするグループや共同体を、物理的にも精神的にも持ち合わせていない。

 

そんな私でさえ、こと性別となれば、「男」という世界を2分している一大派閥の一員ということになる。世界における性的少数者の人数、割合を把握していないが、「男」か「女」かで、世界の90%以上を席捲できるだろう。性別というのは、かなり大きなタグだ。私にいかなる経歴があろうと、それらを圧倒して、「男」というタグが目立つことだろう。まぁ、創価学会員であるとか、夢破れた30代半ばの中年であるとか、まともなタグが無いわけだが。

 

年齢というのも大きなカテゴリー(大人と子供の対比もそうだろう)だが、年齢の場合変動があるので(誰でも年を喰う)、ほぼ固定的なキャラクターである性別の方が強い影響力を持っているよう思う。私が10年後、45歳になることはあっても、女になることはないと思う。

 

性別以上に強いものがあるとすれば、人間そのものだろう。ようは、カテゴライズしない。人間は人間である。以上。分割しなければ世界の100%を占有できる。人間をカテゴライズするという発想自体が間違っているのかもしれない。

 

強者or弱者の比較はどうなのか?と問われる難しい。能力の優劣は確かに存在するが、それが他人を支配して良い理由になるかと問われれば答えはNoだろう。基本的人権を尊重するならNoだ。ちなみにだが、全ての人間を弱者にカテゴライズできるのが暴力だ。暴力はある意味平等だ。30-06とか357マグナムのHPを頭に打ち込まれて死なない奴はいないだろう。暴力の平等、その極致が核兵器だ。

 

話がそれた。人間をカテゴライズする時、性別はとにかく強烈な支配力を持っている。輝かしい経歴があろうが、聞くも無残な過去があろうが、特異的な資格を持っていようが、性別の対比の中で分類されればかき消される。で、弱者男性の話に戻す。

 

弱者を救済するとしたら必要なことは何なのか、それを論じるべきだ。精神論ではなく具体策。法律だったり、支援制度だったり、ハードでもソフトでも必要なサポートは何か、考えるべきだ。考え、実行すべきだ。正直なところ、弱者や差別がどう解釈されているかとか、現代社会における位置付けとか、当事者の生活向上につながるとは思えない。救済する気がないならば、まぁ仕方ない。

 

弱者男性というのを、こと異性経験の貧弱さと経済的な貧困に限定すれば、現実問題として実行可能な支援策は限られてくる。年齢が若ければ、まだチャンスもあるだろうが、35歳も過ぎると日本社会のリアルさは「いつか報われる」などという甘言を許してはくれない。35歳で彼女なし=年齢の状態で、結婚できる確率はどのくらいだろうか。孤独死しない未来はあるだろうか。経済的な格差が固定化する中、中年からの成り上がりは不可能でないにしろ、統計的に優位な数字は残せないだろう。

 

弱者男性を、性的にあるいは経済的に、またはその両方で成功する可能性が限りなくゼロに近い男性と定義しよう。場合によっては、同性との友好関係も希薄かもしれない。私のことだな。

 

セックスの機会を創出するというのは現実的な対応案ではないだろう。風俗産業を支援するというのは一つの回答かもしれないが、「非モテ」であることを変えることは出来ないし、伴侶を得る支援にもならない。雇用環境の整備は可能だろうが、50代男の平均年収の「中央値」が500万いかない現状で(データによる差異あり)、どこまで改善できるかは不透明だ。

 

セックスの機会がないこと、経済的に貧窮している現状を、それが変わらないだろう未来をただ肯定させるというのは馬鹿げている。報われない者が、憎まず、妬まず、恨まずで黙々と働いてくれる。ことによっては、それを幸せだと感じてくれる。支配する側には都合が良いだろうが、よほど厚い信仰心がなければ達成不可能だろう。

 

弱者男性が、自身のあるがままを認めた上で排他的にならず、恨みも憎みも妬みもせず、どうにか自分の中で害にならない価値観を作り上げ、黙々と労働にいそしみ、迷惑かけずに死んで欲しいというのは、支配する側の願望だ。

 

弱者男性の選択肢というのは、基本的に以下三つ。
1.奴隷になる
2.自殺する
3.テロリストになる


自己承認をどうするかって話は、選択した後のこと。基本は1を選ぶ、というか1以外を選ぶとこの世から消えるわけだ。物理的に。

 

で、実際暗い未来しかない中で、どの様に救済するかという話、割と答えは簡単で、セックスできないなら最高のオナニーを用意すればいい。VR技術でも、合法的な薬物でも、アルコールでも何でもいい。一人で快楽を得られる方法を提供することだ。そうすれば、世間に弊害を出すことも無いだろう。頭の中と、自分の部屋の中ならば、何をやっても自由だからな。

 

物理的に解消できない苦しみには、宗教か麻薬が必要になる。おそらく理性では抗えない。それが出来れば、格差なんて生じない。人との繋がりとか友情、誰かの思いみたいなのが、宗教、麻薬(最高のオナニー)への対案になるのだろうが、弱者男性にはそれが無い。

 

この案の問題点は、最高のオナニーの中に、安楽死が含まれることだろう。どうせ最期は死ぬわけだから、特に希望が無ければ気持ちよく楽に死にたいと考える者がでてくるはずだ。それを承認できるかどうかは、難しい。終末医療における尊厳死と違って、生きれる人間を敢えて殺しに行く行為を認めることが出来るか。大きな議論となろう。

 

弱者男性の話を気軽に話すのは、当事者以外-私が当事者かどうかを判断するのは他人かもしれないが-やめた方がいい。以前にも何度か記事にしているが、

孤独な私と人権問題 - 狂気従容

 

他人の人権を嗜好品として楽しむことのできない者は社会と共存できるか?という非常に深刻なテーマを問いかけることになる。準備もなしにその議論に突入し、答えが「共存できない」だった場合、文字通り戦争になるだろう。生存権を奪われるのだから。漫画「花の慶次」には、「人には触れてはいけない痛みがあるそこに触れたら後は命のやり取りしか残っていない」というセリフがあるが、まさにそれである。

 

もっと話したいこともあるが今回はここまで。海外の事例とか、次はもう少し数字を出したい。