狂気従容

軍事、歴史、宗教などを語ります。

孤独な私と人権問題

友人や恋人、家族は嗜好品かもしれないが、人権そのものは必需品なのだろうと思う。憲法第11条および第97条には、以下のとおりある。

 

「国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」

 

基本的人権というのは、侵すことのできない永久の権利として、例外なく誰もが持ち合わせている。というのが、この国の本来の指針である(現実はさておき)。

 

人権を尊重するということは、人付き合いを尊重するということではない。私はそう判断している。人付き合いを必需品にする社会ではない。友人も恋人も家族も、誰もいない。そんな孤独な人物であったとしても、人権は存在する。憲法に、例外規定として書かれていない以上、人権は誰にでもある。

 

しかし、現実問題として難しいのはその運用である。友人も恋人も家族も、誰一人として愛しい人物がいないという条件で、他人の人権に興味を持てるだろうか。私は難しいだろうと思う。と言いますか、難しいというのが、限りなく近いシチュエーションを生きている私の体感である。

 

女性差別の案件が、かつて以上に簡単に炎上し注目される中、ミソジニーだとかインセルだとか、その周辺テーマも注目されていますが、つまるところ、他人の人権を、友人や恋人または家族という嗜好品の形で楽しむことのできない層への対応方法が見当たらないということではないか。女性差別に限らないと。

 

他人の人権を、友人や恋人または家族という嗜好品の形で楽しむことのできない。私のことである。誤解の無いように願いたいが、他の誰のことでもない、まず、私にあてはまることだ。

 

私には、女性の人権を否定する気などサラサラありません。職業差別があってはならんと思っているし、性別を理由に機会を損なうことをヨシとも思わない。あらゆるハラスメントにNoと言いたい。女性差別にNo、あらゆる差別にNoの立場を取りたいと思っている。

 

そもそも、社会性の低い私は、ハラスメントを受ける側にまわる蓋然性の方が圧倒的に高く、誰かへのハラスメントを認めることは、どこからともなく飛び出すナイフに自らの首を差し出す行為に等しい。希死念慮の高い私であるが、そういう死に方をするつもりはない。

 

上記を理解した上で以下読んでほしいのですが、私には、親しい女性が居ない。ほぼゼロ。私にとって、もともと縁がないのである。消えて困らない。もっとも、生きることに気がない私の場合、私を含め男の方が消えても困らないが。

 

友人や恋人、家族は嗜好品かもしれないが、人権そのものは必需品。であったとして、友人や恋人、家族という嗜好品を楽しめない者が、他人の人権に興味を持てるのだろうか。

 

孤独が他者を傷つける免罪符になるとは思わないが、孤独な者が率先して他人の人権を擁護する必要性もないだろう。前述したように、誰かへのハラスメントを見逃すことは、どこかで自分に返ってくる可能性を産む。しかしながら、直近でのメリットは薄い。その上、労力に見合ったペイがあるか疑わしい。

 

女性差別の場合、男とは縁があるが、女には縁がない。男友達はいるが、ガールフレンド(または嫁)はいない。というシチュエーションの男性にとって、女性の人権を擁護することに興味を抱いて、どんなリターンがあるのか。

 

いや、メリットの有無でなく、正しいこと、なすべきことに注力すべきという道義的な意見はごもっともだと思うが、「正しいという理由だけで、自身に直接利益の無い行為を継続できるか?」という疑問は消えない。それを可能にするのは、奉仕の精神、あるいは信仰にも似た犠牲心が必要となるだろう。現実的ではない。

 

前にも少し記事にしたが、この国においては基本的な人権の尊重、他人の人権を守ることは義務ということになっているので、「君に特に何のメリットもないけど義務だからやるように」と命令することは可能かもしれない。もっとも、誰に命令権があるのかはわからない。

他人の人権が嗜好品になりつつある - 狂気従容

 

「将来どかで女性と縁を持つ可能性があるでしょ」という意見もあるだろう。正論かもしれないが、20代ならともかく、30代、40代となってくると、実際そんな機会はないのである。

 

そういう態度だから女性と縁がないのだろうという声が聞こえてきそうだが、それは別の問題かなと思う。私は今、個人としての生き方を問いているのではない。男性の生涯独身者が20%を超える中、仕事以外で女性と接する機会のない者が(つまり職場での人間関係にだけ利害関係がある者)、女性の人権問題に熱心に取り組むだろうか?と問いたいのである。もっと言えば、今のやり方で、人権問題(女性差別に限らず)を解決可能だろうかと。

 

繰り返しになるが、私は女性差別にNo、あらゆる差別にNoの立場を取りたいと思っている。人権とは、例外なく誰もが持っている必需品である。その上で問いたいのだ。

 

他人の人権を友人や恋人または家族という嗜好品の形で楽しむことのできない。そういう層が増える中、人権と人付き合い(絆)を同列に語るのは間違いであるし、差別の改善に寄与し辛いと思う。

 

他者との絆、友人付き合い。その必要性を説く場面・論調は多いわけですが、孤独な者、職場以外で誰からも必要とされない、愛しい他人がいない者に対し、説得力を持たない。魅力を感じさせない。絆を強調するだけでは人権問題は解決しない(絆が不要だという意味ではないのであしからず)。

 

機能の一部としてではなく、代替の利かない個体として、1人の私人としてあなたは必要とされているか?その問いに誰もがYesと答えられるわけではない。私自身の答えは限りなくNoに近い。

 

森元首相の発言に始まり、ここ最近、女性差別に関連する話題を目にする機会が増えたように思います。それに対するネット上、および現実世界での反応を見ていて(職場ではそもそも話題に上がらないっていうね)、どうにもくすぐったい。

 

人権問題において、他人の人権を友人や恋人または家族という形で楽しむことのできない孤独な私に対し、社会(世間)が私に望んでいる態度は「労働と沈黙と服従」だと思うのだが、黙っったまま死ねないので記事にした次第である。